第4話 戦争と平和、そして憲法議論

 戦後僅か十年程後に生まれた私たちにとって、第二次世界大戦という大きな痛手を経て世界は平和へと進むのだと信じた時代が確かにあった。

 しかしそれはどうやら幻想にすぎなかったようだ。世界中に戦争の火種は絶えることはなく、周辺での代理戦争的なものは少なくなりつつある代わり、当事者が大国になることによって危機はますます大きくなっている。その象徴はロシアによるウクライナ侵攻であり、中国とアメリカによる台湾を巡っての鞘当てである。

 この二つの事象は起きる前に前触れを伴っていた。2008年ロシアはグルジアに侵入し、その後2014年に今度はウクライナへ侵攻してクリミア半島を独立させ平然と自らの領土にした。中国は2019年に香港における一国二制度という約束を公然と破った。

 ウクライナと台湾に生じた更なる緊張と対立は、国際社会がその二つを看過したことによって「調子に乗った」二国が更なる横車を押すことが可能だと勘違いしたことによって生じているのである。

 習近平、ウラジミール プーチンという二人の政治家がどれほどの力量があるのかはしらないが、時代遅れの領土拡大主義者、すなわち帝国主義者であることには違いない。とりわけ中国という国は代々領土拡大を画策してその辺境から甘い汁を吸おうとした結果、辺境から滅ぼされてきた国であるにも関わらず、未だにそこから何も学ぼうとしない「尊敬されない国家」である。僕は仕事の関係上知り合いに何人も中国人がいて、中国人を嫌っているわけではないが、「中華人民共和国という国家」は嫌いである。ロシアはそれにくらべて全く知らないが、キエフルーシこそが正統だとすればロシアこそウクライナに統合されるべき国家であり、かつてモンゴル帝国に大敗し灰燼に帰されたモスクワが世界の中心だと思うことこそ噴飯物である。

 彼らが民主主義とか科学とか呟くほどにその無責任な愚かさと傲慢ごうまんさが鼻につく。そのどこにも民主主義も科学も存在していない。どちらも長く政権につくことによって周りに愚者がひっつき、賢者が排除されていった側面は否定できないが、それを含めて国家の首班である政治家の責任である。


 しかし、民主主義を標榜する国家においてさえ、平和から乖離かいりする道を歩もうとする国家が増えてきた。もちろんそれが中国やロシアなどの国から身を守ろうとする反射的な反応であることは否定できないが、反射的な反応をする民に何も考えずに身をすり寄せるような政治家が多いのは困った物である。

 民主主義に対する挑戦は退けなければならない。だから少なくともお題目はそうでなければならないし、それを更に無視して帝国主義的な行動をする国家に寄り添うような発言をする政治家は排除されなければならない。具体的にいえば、香港を中国化することを肯定してきたり、ウクライナを非難したりする政治家は万一中国やロシアが日本に手を伸ばしてきたときに最初に尻尾を振るような人間なのだろう。そんな政治家を選挙で選んでしまう日本や日本人というのも思えば迂闊な国であり、迂闊な国民である。

 確かにそうした政治家さえいることは情けないことなのだが、反射的にだからこそ軍事大国化させるべきという主張に安易になびく政治家も同様に怪しげな存在である。アメリカではトランプがそうであり、日本では安倍政権がそうした主張を育んできた。だが彼らはその主張によって軍国主義者からの支持を得、軍国主義化を進めることによって利権や票を得ようとしているにすぎない。真に国を守る気があればそうしたパスを通ろうとはしない。寧ろ沈黙したままやるべき時には即座に対応する。フォークランド諸島を攻撃されたときの英国のように。キャンキャン騒ぐ国は騒いでいるだけである。

 視点を変えてみればそもそも軍備というのは使わない方が良いに決まっている非生産的な資源で、使わないままやがて陳腐化することこそが目的なのである。ケインズ的な短期的微視的有効需要こそ起こすが、リソースが不足している現代では経済的には本質的に無駄である。とはいえ、無駄を承知で軍備を強化する国家は存在するわけで(例としては北朝鮮)これはゲーム理論から考えて放置するのが得策とは思えないのも事実である。だからこそ政治は外交・協調・恫喝・冷淡・反応・無反応、経済的、政治的手法あらゆるものを動員して対応していくものだが日本という国家がそうしたStrategies Mixを駆使しているかと言えばそうではない。

 その上・・・残念ながら現在の世界の情勢は今の日本が「軍備なき平和国家」を唱えても世界が素直にそれを受け入れるほど甘い情勢ではない。かつて、日本は戦後軍備を持たない平和国家として世界を動かす可能性はあった。だから「戦争放棄」をしたユニークな国家として平和勢力を糾合することができたのかもしれない。しかし戦後僅か5年、警察予備隊が出来た時点でその資格を殆ど失った。それは残念な出来事であるが、今更悔やんでも仕方のない事実である。またそれはそれは朝鮮戦争の特需という形で日本が急成長する糧になったわけで、そうしたことを除外して議論しても致し方ない。

 ただ問題はその時の政治的な対応である。良い、悪いの問題ではなくそれ以降は現実的に憲法の解釈として自衛隊を軍隊ではない、という扱いにしてしまった。これは明らかに全てにとって悪手であった(当時はそう思っていなかっただろうが結局は姑息な手段であった)。解釈によって憲法の本筋を変えてしまうほど愚かなやり方はない。それならば憲法を変えてしまう方がよほどましである。解釈改憲の最悪な部分は「解釈」がその部分に関する程度、およびその範囲において拡大しかねないことである。

 一方で野党の一部が自衛隊は憲法違反であるとしていることにも現実問題として違和感は大きい。ならばそう主張する人々は自衛隊をどうするつもりなのであろう?もし自衛隊を解散ないしは改組するとして、それが世界に与えるメッセージは正しいものになるのであろうか?もしくはそのために憲法改正はだめだと言っている主張をしている人々が憲法の天皇条項をそのままにするとも思えない。

 すなわち与党野党を問わず憲法に関しての主張に一貫した、現実に適合する考えを持っている人々は極めて少ないし、現在の憲法について「改正か」「改正じゃないか」という問いかけも愚かしいことこの上ない。憲法に関しては「改正するとするなら何を改正するべきか」だけを議論すべきで、個人的には①自衛隊を持っている以上解釈改憲をこれ以上許すべきでないので9条を現状に合わせるか否か②7条解散は廃止すべきではないか、の二点に関してのみ議論すべきだと思う。現在の憲法がアメリカ政府によって作られたことをもって憲法全文を改定するという主張にはとてもくみすることは出来ない。なぜなら彼らの主張は憲法の改正ではなく、国家の変容であるからである。そんな国家の変容はろくな目的を伴っていない。またちなみに憲法とは行政と国民の間の権利義務関係を規定するものであるからして、基本的に政府・ないし行政から発せられた憲法改正議論に関しては国民が疑ってかかるべきなのは当然のスタンスである。成熟した憲法議論はそうした前提を以て語られるべきであり、改憲に賛成か反対かなどと言う二者択一に帰着すべき問題ではないのだ。


 だが自民党が民主党から政権を奪還してからというもの、そうした議論が公然と自民党内部からでてきている。自民党には自由、民主という党名にある理念以外に「単なる保守」が存在する。その保守は自由とか民主とかと言う価値観を特に共有しない存在であり本来の党名からして異質の物である。その異質のものに自由民主党は乗っ取られているのではないかと危惧する。その保守はしかし自民党が生まれたときからそこに内在していた。新生物と同じように少しの異物で変質する存在があったのだ。現在の自民党はその中で完全に変質するのか、そうでないのかを争う状態にあり、そうした中で変な暴露を猪口才ちょこざいが行っている最中である。


 いずれにしても憲法とは国家の理念を担う物である。その理念において民主主義とか自由とか国民主権とか、そうした国民にとっての価値を損なってはならない。

 戦争放棄というのもそうしたものと並んで一つの理念であり、それは第二次世界大戦におけるアジア太平洋地域での戦闘を惹起した責任を痛切に感じて日本が受け入れた理念であったが、その理念は世界情勢を受けて変容せざるを得なかった。その変容が始まってすでに70年が経過しているのも事実であり、もしも巻き戻そうとするならば自衛隊を解体しなければならない。そんなことは現実的ではないだろう。だからこそ、平和主義に裏打ちされた新たな仕組みを作る義務は存在しているのであり、その裏打ちのない議論や無謀な憲法改正を避けるために英知を集結しなければならない時期に来ているのも事実であろう。


 


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