第3話 年金問題

 年金の問題もまたその制度の根源へのルートを辿れば、議論がもう少しまともになる、と僕は信じている。今の議論は、支払い世代である若者にとって払い込んだ総額が取り戻せるかどうか、という些末さまつというか本質的でない点に拘っているが、現実問題として年金は総額をリトリーブできるかのの問題ではなく、物価スライドに基づいて「暮らし」の資金として老後の生活に十分かどうかで決めるべきで、今の段階で論じても前提となる物価や金利の立て方と、年金の実現できるRoI(Return of Investment)、そして寿命などによってどうとでも計算できてしまうのである。正直言って物価が下がるなら総額は増えても減っても問題ないというのが年金の基本的な考え方である。

 年金制度はその系譜を辿ればドイツ帝国の鉄血宰相ビスマルクが導入した仕組みで当時の時代の要請に基づいたものである。従来個人事業主、即ち農民や鍛冶職人、石工、パン職人などであった人々を官僚・軍人・会社員として組織の中に取り込む時に「社会、即ち国家や軍・会社がその人々を死ぬまで雇い続けることは無理であり、一定の年齢に達したら(即ちその人が組織に存在する便益より、費用が高かったら)、その人が『支障なく生活できる程度の資金を拠出する』ことを条件に退職してもらう仕組み」が必要になる。当時のドイツは資本主義が経済社会の基礎的な考えととなり工業が盛んになると共に底辺の労働者階級が現出し社会主義が勃興する状況であった。と同時にフドイツはランス・ロシア・英国・オーストリアなどの周辺国家との軋轢を抱えており、対外政策・国内政策の舵取りは非常に困難な状況にもあった。その状況でビスマルクは敢えて労働者に対して宥和ゆうわ政策を取った。

 内外に同時に問題を抱えるより国内をまとめ、汎ゲルマン主義の勃興ぼっこうを抑え領土的な野心を封じることと同時に産業振興と軍事強化を進めるという課題をこなしたビスマルクは現代のそこらの政治家などよりよほど卓越した政治家であり、先見の明のある人物であったと言えよう。その政策の一環である年金制度は今でもその骨格を保持したまま各国に残存するが、その基本的な社会制度は、国家・企業・労働者の三者で構成されていることを原則としている。

 ところが、この社会構成は近年崩壊しつつある。本質的には構成する要素が変わらないのにも関わらず、企業が正規雇用を控え雇用を非正規に転換することにより、フリンジベネフィット(便益)に伴うコストをセーブする事を目論み、国家がそうした雇用形態を後押しして認可することがなんの検証もされないまま行われているのだ。そのためただでさえ脆い基盤の上に立っていた年金は迷走し始めた。年金の制度を崩壊させるのに手を貸している政府が年金をいじくっているのでややこしい。しかし、現在の雇用形態である定年制が続く以上、年金制度の根本的対策は避けて通れないばかりでなく非正規雇用(形式は個人事業主)に関する本質的対策を迫られることになる。

 また近年、定年制を廃止したり先延ばしする事で年金制度を維持しようという試みが成されているようだ。だが、それが果たして解決策として良いのかは「労働力としての65歳以上」の確保が労働という市場で果たして意味のある存在なのか、トータルの働き口と労働生産性などを考慮して望ましいのかをすっ飛ばして議論することはできない筈である。もしそうした「定年制の延長」が「限られた賃金と働き口」を若手労働者から奪い、生産性の低下を招く悪手であるならば(恐らくその可能性は高い)本末転倒なのである。そもそも年金制度を理解している人間ならば人口の減少(それ自体も富裕化した社会の特質であるが)と死亡の高齢化が年金に与える影響が分からなかったはずがない。それを姑息こそく糊塗ことでごまかそうということ自体が問題である。

 年金のマクロ経済スライドももちろん、姑息な糊塗の最たるもので、年金の基本的な考えを理解していない物で、一見偉そうな名前(年金がマクロ経済にスライドするのは当初から当然の問題で今更それを持ち出すこと自体が怪しい)ではあるがろくな考えではない。(なぜならマクロ経済における諸条件の変化は年金の基本的な趣旨である「維持すべき食い扶持」を少なくすることへのなんの説明にもならないからだ)雇用形態の自由化などという詭弁きべんろうするのもやめた方が良い。企業が技術の進歩や社会制度の変化により制度疲労を起こし長持ちしなくなる社会でも人間の基本的なニーヅがなくなるわけではない。年金のポータブル制度なんかはましな方だがそのほかの年金制度に関する議論はほぼほぼろくなものではないのが実情である。まあ取りあえず許容範囲内である限りは我慢して構わないが、我慢しているといつまでたっても直さないのが今の政治だ。

 マクロ経済における諸条件の変化があった場合、給付の源泉を増やさない政治は無能で未来はないのだ。当たり前の話である。若者はその無能さを見越しているから年金に加入したくないと思っているのだろうし、その点ではある意味(静的な行動形態としては、あるいはミクロとしては)正しい。年金問題はそれがいつか「食えない国民」を大量に現出させ、社会不安を発生させれば場合によっては「革命」が起こる。「革命」とは「起こしてはいけないもの」ではなく、「起こさせてはいけないもの」だ。

 ちなみに勘違いした為政者の「革命」の使い方はすべて誤っている。中東の某国家では国民を「革命」に反していると死刑にし、他の国家では「革命」を起こそうとしたと言って罪にする。「革命」を起こしてはいけないと我が国で言っている人にとっても、中国や北朝鮮で革命が起こらないことを不思議に思っている。

 だが、革命とは「命」を革める、すなわち無能なものを有能なものに変える、という意味でしかない。選挙制度というのはその緩衝を行うものであるが現在では機能不全に陥っており、民主主義国家においても起こりうる可能性を否定できない物である。


 さて、議論を戻そう。そもそも年金は従来、積立制度として設計されたのだが、賦課方式に変更されたことで世代間問題が発生した。というより賦課方式に変更された途端に(理論的には)最初の世代にアドバンテージができるわけで、本来は運用でより高い利回りを得ることでそのギャップを解消するべきだったのだが、処々の問題が生じてそれどころではない状況に立ち至った。年金を集めるところでも運用するところでも「他人の金がうなるほど」ある状態に悪い虫が集まるのは世の習いのようである。社会保険庁を初めとした日本の年金に携わる官庁は単に無能だっただけではなく犯罪的行為をしたのだが、どちらかというと無能の方の責が重い。本来年金は受給される側の国民が監視をしていなければならないものだが、あいもかわらず日本ではお上のやることは間違えない(「世界の標準」ではお上のやることは信用してはならないからきちんとチェックすべき)と考えたくて、受益者が問題を放置している傾向が未だにあるのも問題を大きくしている。

 ちなみにこの「お上のやること」問題はもう少し掘り下げて「日本の上部構造に関する国民の意識」という大きな課題にむずびつけて考える必要はある。マイナンバーカード問題でも明白なように日本人は「お上のやること」を信じていると言うより、不安に思っているが、「お上のやること」に疑いを持つと「結果的に損をする」ので「明白にそれを表明したくはない」精神構造をもっている。もちろん「お上のやること」べったりの更に幼稚な精神構造も存在しているがそれはメジャーではないのだ。


 さて、新たな社会構造、すなわち企業に属さないメンバーが雇用の相当数の割合を占める場合の社会福祉制度をどうするか、という点に関して政治は検討をしなければならない。もちろん国民年金の援用では不可である。

 厚生年金と国民年金の基本的な違いは国民年金の受給者は本格的な「自営業」であり、自営業は定年がなく、老後も働けることを前提としている。だが新しい雇用形態が老後も働ける事を前提としているとは到底思えない。つまり国民年金が「自営に基づく生涯雇用」を前提としているのに対し、新たな非雇用層はまず「生涯雇用」はできないという前提で設計しなければならない。

 年金の問題が現実になるのは若い世代が年金を受け取る時代に顕在化するであろうが、それは「払った人間が払った分だけ取り戻せるかどうか」ではなく、払っていない人間がどう生活を維持できるのか、という問題に帰着する。年金制度の崩壊は自分で「生涯暮らしていけるだけの収入を確保しなければならない」という意味を持つのである。現在「会社」という組織に属していない人間が、年金制度に加入しないで老年期に達したときそれに備えた貯蓄をしていられるか、という大きな問題がある。

 今でこそ2000万円と年金という言い方をしているが、年金がないまま老後に突入した場合、2000万円では全く不足だろう。(その上愚かな者どもは日本の物価が安いのが景気を悪くしているといっているが、もし物価が結果的に二倍になれば必要な貯蓄は単純に計算すると2倍になるわけである。経済とはダイナミックに分析する必要があるから金利や資産効果の変数を考慮しなければならないけど年金という制度問題は変数の問題とは関連なく制度的な保障でありそれを変数で解決しなければならない性格のものなのだ)かといってそのときに生活保護として税金を投入してしまえば、年金を払っている人間が許さないだろう。つまり選択肢を与えることで将来の社会不安と政情不安の種を蒔いているのである。人間は食えなくなったとき、それが社会の一定数以上存在すれば「騒擾」を起こす。それは乱に留まるかも知れないし、革命になるかもしれない。「自己責任」とうそぶいていれば済む問題ではないのだ。


 それに対応する案としてidecoという制度が設計されたではidecoはすべてを解決できるのであろうか?かんがみるにこれはこのまま破綻が避けられない賦課方式を積み立て方式に回帰させ、同時に政府が抱えている巨大な株式と債券の売り玉を消化するという目的を否定しきれない。そもそも可能性が高いとは言えない株式の値上がり益に対する税金を名目上断念すればいいのであるから一石二鳥というところであろう。(非課税というのは課税するべき益が存在するときだけに問題になるのである)その上この制度によって日銀によって息の根を止められかねない銀行の収益源を確保するふりもできる。

 とはいえ、投資というのは空気で決まる部分もあるので、「空気」の流れがあればこのふわっとしたパッケージも或いは成功するかも知れない。本来なら政府がその専門性を生かして年金の収益性を確保するのが本筋なのだが、できないので個人へ丸投げし責任を放棄したのだろうけど、大多数がnisaとかidecoに流入すれば少なくともその一部は利益を出し老後の生活を確保することができるし、できなければ「自己責任」に振り替えることが可能なのである。単純に言えばidecoにしてもnisaにしても「個人が老後のために自己責任で貯蓄ないし投資をする」のとさして変わらない話で「譲渡課税を一定程度優遇する(ふりをする)」ものなので、しないよりはましであろうが、その背後には「本来政治が負うべき責任を個人に還流させる」意図は明らかに存在する。まあ、それで「国民の大部分が食えなくなったらその時はその時のこと」なのである。そう言う世界に投げ込まれつつあることを自覚した上で、個々の国民は政治に対して接しなければいけない。

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