第2話 NHK問題 マスコミュニケーションとは何か?
あまり政治に関わることに口を出すのは日本では好まれないし、色々な意見があることは承知しているが、この歳になるとどうも「これは一応、はっきりと言っておかなければならないんじゃないか」と思うことがいくつか出てくる、と序論に書いた。
その一つがNHK問題で、うかうかしているおかしな政治家がとんでもない話をし始めかねない。今のうちにくぎを刺しておくのも年寄りの義務かと思う。
NHK問題というのはもちろん受信料問題で、この受信料問題は結構、根が深くその上導入時と現代との間に時代や技術の変遷が絡んでくるのでややこしい。だが、そもそも「なぜ公共放送が税金で賄われないのか」という点と、「実は受信料は必ずしもNHKを見る対価ではない」という二つのポイントを押さえないと、議論が迷走してしまう。
つまり現在の受信料問題は問題提起から間違っているのであるが、以前会社勤めをしていたとき、何某旧帝国大学の男性と何某私立の雄大学の卒業生が「見ないから払わない」的な会話をしていたので、個人の学歴・学力に関係なく相当の混迷がここに存在していることは間違いない。
まず、なぜ公共放送が税金で
すなわち権力側としては、「苦境を救うためにNHKサイドに理解を示すことによって放送を取り込む」格好の口実になる可能性が生じる、のであるが、受信料支払い拒否者はそれに加担しているということに対して全く注意を払っていない。むしろ公共放送が公権力に寄り添っているみたいな本末転倒な議論を繰り広げているケースもある。権力者の立場に立てば「公共放送が受信料問題で苦境に立ち、権力側に助けを求めることに対しての恩を売っておいた方が得」だと考えるに違いない。何某政党が受信料不払い問題で一定の支持を得ながら、その後迷走に入った理由はここら辺に鍵があるのではないかと個人的には考えている。つまり、コントロールが不能になるほどは騒ぐな、と釘を誰かから刺されたのではないか。つまりNHK受信料は「多少の変遷を経ても」「決してただにはならず」「権力側にNHKに対する影響力を高めるという結果」に帰するのはほぼ自明の流れである。
「政治」と鍵かっこつけにしたのは本来政治とはそういうものではない、と思うのだが残念ながら今の政治には鍵かっこをつける必要がある。本来政治家と言うのは基本的な統治思想と民主主義の原理原則に基づいて国民をリードしていくべき存在であるが、「多数決こそ民主主義」のような幼稚な議論で自らの利益のために
二つ目の「受信料とは何なのか」という問題はこの点を理解してから論ずるべきであろう。受信料の考え方が生まれた時代は、娯楽の基本はテレビであったため、「テレビを見るために受信料を払う」という方式が理解を得やすかったのは事実であろう。つまりテレビを見るために対価を払うことに何の疑問も生じなかった時代なのである。実際、放送する側もその論理で押して、何の支障もなかった。だが、ネットの時代になり必ずしも娯楽はテレビによってもたらされるものではない時代になったことでこの論理は破綻する。破綻する内在性をもった論理で受信料を得ていたNHK側にも問題があるのは否めない。
しかし、「放送の自由」を支えるための費用の負担というのは本来は娯楽の対価ではない。娯楽はいわば「おまけ」なのである。ロシアや中国のように放送の自由がかなり制限されている国家ほど「その料金は国民によって直接賄われていない」のは事実で、「よほど成熟して権力者は放送の自由にタッチしないルールが浸透している」ために税金で放送が賄われるケースはあるものの、「水や空気のように自由はタダ」だと思って居かねない大半の国においては、「権力」と「放送」は制度的に切り離しておく仕組みが必要なのである。
受信料はその制度を担保すべき仕組みである。残念ながら日本は、このところ特に顕著に「権力」が「行政」や「放送」「学問」に介入し、なおそれを対して気にも留めない国民が多いので状況は劣化しつつある。
この本質にあるものは「マスコミュニケーションとは何か」という本質的な問題である。マスすなわち大衆というものは現実に存在している。どの時代にも「マス」は存在しているのである。この「マス」は通常、権力外に存在する存在であり。専制時代や王政時代においては「従属する、
自由は決してただではない。自由というものは常にそれを脅かすものとの戦いを強いるものだ。戦後民主主義でいきなり天から棚ぼたのように民主主義や自由が降って来た日本人が「自由」への戦いにおいて先人であるイギリスやフランスなどに比較してその意識が低いというのは常々言われていることだが、そうした意識の低さがこの問題においても顕著に出ている。もちろん「報道の自由」は報道側が何を勝手にやってもいいというわけではなく、多少のフリクションにかかる部分があっても「公益」に寄与する場合は報道の自由は保護されなければならない。
近年オールドメディア、ニューメディアと区分けして新聞や放送が時代遅れのようにいう人々もいるが、インターネットはあくまでツールであり、ツールでオールド、ニューを区別する意味はない。もちろん既存メディアがすべて正しいわけではない。しかし、既存メディアの間違いや問題を非難する人々はインターネットに更に深く広く存在する間違いや問題を敢えて見ようとはしない。
メディアにはツールと異なり、判断すべき大前提がある。それは情報の正しさ、伝えようとしている人々の誠実さ、である。個人的に見る限りにおいてインターネット上の情報がその基準を満たしているとは到底思えない。今はインターネットのニュースソースも既存メディアから引用しているものがあるが、既存メディアが崩壊したら、インターネットでの情報はほとんど信じるに足りない情報、すなわち誰かが誰かの「ためにする」情報だらけになってしまうことは明白である。
そこには「言いたい放題」「誰かの
敢えて言おう。受信料問題を
もちろん、既存の言論である放送・新聞にも反省すべき点は山ほどある。しかし報道を叩く人たちの議論は極めて些末である枝葉の部分を叩いていることが殆どで、骨子の部分は「いくつかの主張の中のかなり偏った主張」であることが多い。
その上受信料で言えば、本来払うべき人が払っていないために、払っている人が「超過的に払わされている」問題が存在し、それを解決しなければいよいよNHKへの信頼が低くなる可能性もある。受信料を収めている人は収めていない人に詐欺的仕打ちを受けているのだから。
まあ、自由なんてそんなもので、よほど注意していないとあっという間に失うものであり、これは政治的に右とか左の問題ではなく「全体主義」を許容してしまうのか、否かの問題である。比較的全体主義を許容しやすい民族はどうかすると「おかみの御威光」にひれ伏しがちで、その先が「やたらマッチョな大統領」であろうと、「どう考えてもコミュニズムとはかけ離れた独自の共産主義を唱える主席」であろうと「この国に現出するかもしれない変な権力者」であろうとその先を問わない。
自由主義すなわちリベラリズム=左翼などという定義は滑稽の極みで、そもそも自由民主党というのはLiberal Democratic Partyなのだからその定義では自民党は左翼集団と言うことになってしまう。
本来、未熟な政治的見解をもって語る人々の意見をもって多数と言い切るような政治家は不要である。その行き着く先は専制主義で、われわれは今の北朝鮮・中国・ロシアにその例を見ることができる。ロシアや中国を批判しながら、自由の対価を一向に支払おうとしないのは論理的一貫性に欠ける矛盾した行動なのである。
さて、そうした場合では受信料問題はどう解決するべきなのだろう?またNHKなどの公共報道機関をどのように国民は扱うべきなのだろう。
そのためには時計を元に戻して本質的な議論をしなければならない。つまりは政治的に中立な形で国民に「自由」の対価を払わせる仕組みが必要になるのである。Taxというのは本来、それが権力の自由になるという前提ではないが、今の仕組みでは予算と執行がruling partyの裁量によって行われている。では自由の対価はどのように徴収されるべきであろうか?
「自由」が本源的な価値である以上、本来自由を原則とした価値を実現するための単なる費用としての税金よりも高い位置に存在しなければならない。つまりは税金を払わないよりもたちの悪いことを無自覚に行っている、という事に未納者はなるのである。極端に言えば、そうした人々に民主主義の根源である選挙権を与えないというのが正しい方法である。民主主義は多数による横暴を前提としていないのだが、その所与の前提が既に崩壊してしまったこの世の中で、再度「民主主義」を本質的に立て直す方法があるのか、今、問われているのである。
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