第四場 解錠

 七百三703号室と書かれた客室のドアにカードキーを通し、帆ノ宮一香ほのみやいつかはドアを開けた。中に入り、背中でオートロックの扉が閉じたのを感じると、フウと大きな息を吐き出した。

 部屋の中は今朝の状態のままだ。父が脱ぎ捨てたズボンやら兄が脱ぎ捨てたトレンチコートやらが、ダブルベットに乱雑に折り重なっている。

「……まったく、パパもお兄ちゃんも、どうしてハンガーに掛けないの」

 独りごちると、急いだ様子でそれらの服を引ったくり、畳むでもなく丸めるように小さくかためて大きな黒いスーツケースへと詰め込んでいく。

 一通り部屋が荒れていると感じない程度に片付けると、小さな声でよし、と呟いた。

 携帯を見ると、そうから『ホテルに着いた』とメッセージが届いていた。

 一香は目を丸くすると、着ていたフリースを慌てた様子で脱ぎ捨てた。水色のワンショルダーのドレスから白い肩がのぞく。

 クローゼットに脱いだフリースを投げ込むと、代わりに掛けてあったストールを引っ張り出した。そのまま小走りで洗面所へと向かう。

 鏡に写った顔は我ながら少し疲れた様子に見えた。

 垂れ気味の目はいつも通りとしても、それ以上にトロンとしているし、涙袋も少しばかり主張が強い。こういう若干の病的さが好きだという人もいるけれど、窓はどう感じるかな。そんなことを考えながら自分の姿を見つめた。

 鏡の中で着飾った自分を、出来るだけニュートラルに客観してみる。

 その結果、尋美ひろみが選んでくれたこのドレスは、やはり自分には早いように思えた。むき出しになった左肩を細い指先でなぞってみる。どこか貧相だ。これが尋美のように恵まれた女性の艶や肉感を持ち合わせていれば、さぞ魅力的に映るのだろうが、二十歳そこそこの自分では背伸びしてみた発表会といった様相に思えてしまう。

 背だって低くない。胸だってなくはない。でも醸し出せない色気はなんだろう。

 髪くらいアップにしてもよかったかな。でも首まで晒したくはなかったし寒い。これでいいのだと自分に言い聞かせた。

 その時、部屋の戸がトントンのノックされた。

 窓だ!!!

 一香はストールをふわりと両肩に羽織ると、肩口の髪をひと撫でして、鏡に向かって口角を上げてみせた。

「はーい、今開けるね――」

 そう発しながら戸の方へ向かった。


 逸る指先を抑えながら錠を解き、レバーハンドルに手を伸ばす。すると一香が触れるより先にハンドルが開方向に動いた。

 ドアが開き見知った青年の笑顔がそこに見えた。

 スーツのせいだろうか、窓の姿がいつもよりシュッとして見えて、その瞬間、この人を大勢の女性の目に触れせさたくないと思った。今日の会が億劫になった。

 気付いたときには、無意識に窓の胸に飛び込んでいた。

「どうしたの、一香」

「充電」

 そう発した自分に応えるように腰に手がまわる。背中が笑うようにしてそれを脳まで届け、自然と一香の口元が緩む。

「……つかれた」

 安堵からか今日一日飲み込んでいた言葉が喉から零れ落ちた。

 窓は小さく、優しく呟いた。

「お疲れ様」

 一度身体を離すと、一香は目に光を讃えながら微笑んだ。そして窓の手を引き、部屋の奥まで招き入れる。

「外から見ると豪勢な感じなのに、中は割と普通なんだ」

 窓が室内を一瞥して言った。一香は頷いた。

「部屋によるんじゃないかな。結婚式とセットになっているような新郎新婦のお部屋は、もっとロマンチックだと思うけど」

「一香が思うだけ?」

「そう私が勝手に思うだけ」

 二人が目を合わせながら、同時に笑う。一香はこういう自然な会話が好きだった。自分の思ったことをそのまま口に出し、それを柔らかく受け止めてくれる窓が好きだった。

「今日は何時から手伝いしてたの?」

 窓の問いかけに、一香はいかにもつむじの曲がった様子でダブルベッドに腰を下ろしながら答える。

「八時から。プレゼントの包装やら飾りやらしたかと思えば、着飾らされてパパが懇意にしている社員さんにご挨拶したりね」

「大変だったね。懇意……っていうとお兄さん以外に誰かいたかな」

花輪はなわさんとか、金星かなほしさんとか。私はちょっと苦手だけど」

「ああ、あの意識高い系の」

「そうそう。そのくせ前時代的なのが嫌。媚びてのし上がろうっていう野心が、見ていて古臭いの」

「言うね。でも言えてる。力があれば自分で何でも出来る時代だからね」

 自分を肯定して笑顔を見せてくれる窓。一香はその姿に、愛おしさと同時に何とも言えぬ儚さのようなものを感じた。

「窓は……今日のパーティー、本当に参加するの?」

 思わず口走っていた。内心しまったと思った一香だが、窓は事も無げに答えた。

「参加するよ。関係者中の関係者じゃないか」

「それはそうだけど……私は……」

 一香は口ごもった。今の今まで、鉄哉と尋美の結婚について窓と腹を割って話したことは無かったからだ。どちらともなく――いや、一香の方が避けていた。

 一香の父・帆ノ宮完至ほのみやかんじは窓の父である秀勝ひでかつと共に<タマル・システムズ>を立ち上げた創業メンバーである。旧知の仲ではあるが、その実、経営方針では多くぶつかりあった。革新派と保守派と言えば分かりやすい。

 他社からの引き抜きも辞さず、多少のリスクを伴ったとしても「会社を大きくする」という確固たる目的のもとに経営を行う秀勝に対し、帆ノ宮の考えは「現顧客との結びつきを強固に」という思想であった。度々ぶつかり合うのは必然であったし、間違ったことを言っている者もいない純粋なコンペティションだ。

 そうなると物を言うのがカリスマ性というやつだった。秀勝の行動力や発言力に裏打ちされた求心力は圧倒的なものがあった。いつも意見を押し殺すことになるのは、保守派の帆ノ宮の方だった。それでも会社として成功を重ねていくのだから、異議を唱えることもなかった。

 いつの間にやら会社に加わった秀勝の兄・鉄哉てつやは保守派にまわったが、それでも秀勝の牙城を崩すには全く至らなかった。秀勝が命を落とす、その時までは――。

 一香は幼い頃から家族ぐるみで田丸一家と付き合いがあり、窓とも知り合っていた。男児しかいない秀勝と尋美に、まるで娘のように可愛がってもらった。

 だから聞きたくなかった。

 夜な夜な晩酌をしながら秀勝に毒づく父の声に耳を塞いだ。そんな父と同調し、一緒になって実の弟に悪態をつく鉄哉にも嫌悪感があった。


 今日日きょうび、そんな二人が会社の主役へと躍り出ている。

 おまけに窓からすれば、大切な母までもがそちらの勢力に飲み込まれたと言っても良い。自分のことでは無いにせよ、窓のことを思えば思うほど、いたたまれず、なぜだか自分が申し訳ない気持ちになった。

 ここ一年、意気揚々と仕事に励み鉄哉のサポートをこなす父の姿に、心理的抵抗感すら覚えるほどだった。


 口先を窄んだまま惚けていた一香の隣に、窓が腰を下ろした。その重みで柔らかいダブルベットがたわみ、自然と窓の方に身体が引き寄せられた。一香はその力に敢えて屈して、窓の身体にもたれかかる。

 窓もそれを望んでいたかのように一香の身体を抱き寄せた。

「ごめんね。一香にも礼史れいじにも、僕はすごく心配をかけてるみたいだ」

「……うん」

「一香も考えているように、確かに複雑だよ。父さんの死を乗り越えきれていない今、その父さんと考えの違う伯父おじさんが『義理の父』だなんてね」

 窓の胸から響く鼓動が、その言葉を裏付けるように昂ぶっている。

「納得、してないの?」

「……してない。でもさ、納得と理解は違うよ」

 窓は一香の両肩に手を置き、顔を起こして目を見つめた。

「僕は今日、見に来たんだ。理解できるかどうか。すごくシンプルに二つの道があると思う。理解できる、理解できない。反抗的になるかどうかは、それから決めたって遅くない」

 一香には、窓の左右の目の奥でそれぞれ色の異なる炎が燃えているように見えた。その水晶体のどちらが自分を見つめているのか分からないが、どちらかは焦げ付いて、自分を視認すら出来ていないような気がして怖かった。

 瞬き一つしていない一香にハッとした様子で、窓は表情を和らげた。

「……それにさ、僕はメリットにだって目を瞑ってないよ。老後に母さんが寂しくないならそれも悪くない。あと……伯父さんと上手くやれれば、結果的に帆ノ宮さんとも、一香とも付き合いやすくなるかも知れない」

 そう言うと、答えを返そうとする一香の口が動くより先に、その唇を重ねて塞いだ。一香の口も抵抗せず動くのを止め、従順に応じた。

 一香は窓の最後の言葉と行動とで幸福感に満たされ、それまで感じていた杞憂を忘れてしまっている単純さに、我ながら呆れてしまった。でもそれでいいと思った。心配を上書き出来る喜びがあるのなら、それこそが幸せだと思う。私も窓のそんな存在になってあげられればいいのに。一香は切にそう願う。

 二人はゆっくりと瞳を閉じて、互いに何か伝え合うように、いつまでも唇を重ね続けた。

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