第二場 劣情

 携帯のアラームよりも早く目が覚めてしまったのは、いつのまにか剥げていた布団のせいだろう。礼史れいじは自分でも笑ってしまう程に膝を抱え丸くなって眠っていた。

「寒っ」

 目が開くよりも早く独りごちると、すぐに足元に寄せられていた掛け布団を引ったくり冷えた身体に被せる。落ち葉が目立ち始めた季節とは言え、まだまだ寒くはならないと思っていたが気温は順調に下がっているらしい。礼史はそれを痛感した。

『時間です――――。時間です――――』

 間の悪いアラームが鳴動し始めた。既に目が覚めているのに、そうとは知らずに必死に設定通り主人を起こそうとする声が、ひどく滑稽に思えた。

 滑稽か――。

 礼史は苦笑を浮かべた。滑稽と言えば今日のイベントにも言えることだ。もうすぐ五十にもなろうかという男が『結婚記念パーティー』とは笑わせる。企画したのは新社長に気に入られたい取り巻きの一人なのだろうが、内心あざけっているのは自分だけではないだろう。礼史はそう考えていた。


 礼史がそう捻くれた思想になっても無理はなかった。故・田丸秀勝たまるひでかつに近かった人間ほど、礼史と同じように感じることだろう。

 秀勝には愛する二人の家族がいた。一人は息子であるそう、もう一人は愛妻・尋美ひろみだった。三人の家族仲の良さは<タマル・システムズ>社員なら誰もが知っていた。会社のイベントとあらば、社長家族が参加するのは定常であり、窓のことなんかは社員の皆が成長を見守ったと言っていいほどである。礼史も窓に連れられてそこに参加したこともあった。

 秀勝の葬儀で泣き崩れる尋美の姿や、まるで瞳孔が開いているかのように虚ろな目で遺影を見つめる窓の姿を目の当たりにし、共に心を痛めもした。

 それだけに秀勝の死から一年が経過した先月、新社長である鉄哉てつやから発表された結婚相手に、一同は耳を疑った。

「秀勝の妻であった尋美さんと、入籍することになった――」

 鉄哉は、秀勝の二歳上の実兄だ。つまりは死別した弟の妻を、自らの嫁に迎えると言っているのである。

 こういったことは歴史を紐解けばよくあることではある。所謂いわゆる逆縁婚ぎゃくえんこん』というやつで、親族から親族へと鞍替えすることは、体制の維持などにおいて効率的であったことなどがその所以ゆえんだろうが、現代ではそうそうないことだろう。

 これほど様々な感情や憶測が飛び交う婚約発表もない。発表されてすぐ、柏手かしわでを打てるものはそう多くなかった。


 礼史も気持ちの整理がつかないうちの一人であることは言うまでもない。

 なんなら、自分の境遇に当て嵌めてみて、自分の母と田舎にいる伯父おじさんが……と考えて気分が悪くなったりもした。

 自分でもそう感じると言うのに、窓はどう受け止めたのだろう。メンタル的に追い込まれてしまわないかと、親友の心を慮った。

 しかしその実、窓の反応は飄々ひょうひょうとしたものだった。

「僕も驚いたよ。まさか伯父さんが、僕の家に帰宅してくる日が来るとはね」

 それが本心なのか虚勢なのか、はたまたそれ以外の何かなのか、礼史には察することも声に出して訊くことも出来なかった。その話題自体がさっさと流れてくれることだけを望んでいた。

 なるべくこの話題に関わりたくはない、そう思っていた矢先に舞い込んだのが本日開催される鉄哉と尋美の結婚記念パーティーなのである。

 気は乗らないが未来の就職先のトップに関わるイベントであり、更に最も気が乗らないであろう立場の親友が参加を表明したのだから、礼史とて不参加の返信をすることは出来なかった。

「……いきたくねえなぁ」

 枕に向かって嘆息混じりにそう発すると同時に、腹の虫が鳴いた。もう昼だ、腹も減って当然だった。礼史はその空腹に乗じて自身に喝を入れる。

 今日のパーティーではきっと美味しいものなどたくさん出るだろう。それをご馳走になると考えればいい。まだ入社前の学生である礼史には会費の請求は無いと聞いている。今日はひたすら美食に徹するのだと思考を転換すれば、いくらか気持ちも楽になるというものだ。礼史は頬をパシッと叩くと勢いよく立ち上がった。


 ◆◆◆◆


 軽食を済ませた礼史は、リビングで一息つきながら携帯に目を落とした。トップ画面のデジタル時計は十三時を指し示す。

 既に装いは濃紺のスーツ姿であり、寝癖も整え、いかにも快活そうな短髪が整髪料の力を得て逆立っている。待ち合わせまでは三十分程の余裕があるが、礼史はやおら立ち上がり、テレビを見ながらくつろいでいた母親に声を掛けた。

「なあ母さん、結婚式でもない結婚記念パーティーってのは、どんなネクタイしてったらいいと思う?」

「白系。お祝いは無難に白っぽいの付けておけば問題ないわよ」

 視線はテレビから外さず、さも当然とばかりに母親は吐き捨てた。それを聞いた礼史は、今日締める予定だったお気に入りの青いネクタイを、泣く泣く上着のポケットから取り出すと衣類棚へと戻す。

 窓はこのことを知っているだろうか。あいつも暖色よりも寒色を好む傾向があるから、注意しておいた方が良いかも知れない。自分のことは棚に上げて、そんなことを考えていた。

 礼史は父親の衣類が掛かったハンガーから、オフホワイトのネクタイを引ったくると、ワイシャツの襟を立てて巻きつける。

 その時、礼史の携帯に窓からのメッセージが届いた。

『もう着いちゃった。早い?』

 礼史はクスリと笑う。特に意識したわけではないのだろうが、何の気無しで早く準備をしてしまったのは窓も同じようだ。慣れていないことをする緊張感というのは、人の行動を早めるということなのだろうか。礼史にはその些細な類似点がなんだか可笑しかった。

『俺も準備OKだ、今出るからちょっと待って!』と叩くように素早くタップして送信すると、途中だったネクタイを締め終え、リビングにいる母親に一声掛ける。

「じゃあ行ってくるわ! 帰りは遅いかも知れないから鍵閉めてていいよ!」

 そのまま玄関に向かい、靴箱から黒い革靴を取り出す。昨日父親に貸してくれと頼んでおいたからか、すぐに出せるところに置いてあった。しばらく使っていない冠婚葬祭用に取り置かれた作りの良い革靴だが、埃一つ乗っていない無いのは両親の愛情の賜物だ。

 それを知ってか知らずか、礼史は丁寧に足先を滑り込ませていく。靴べらを探そうと右手でまさぐろうとした時、タイミングよく礼史に靴べらが差し出された。

 振り返ると、いつの間にか背後に母親が立っていた。

「田丸さんのところの事情はよく知らないけど……私からもおめでとうと尋美さんに伝えておいて。あとこれは気持ちだからと言って渡しておいて」

 母親は準備してあったであろう御祝儀袋を取り出して、礼史に手渡した。礼史は使い終えた靴べらと交換するようにして、それを受け取った。

「別にこんなのいらないと思うよ? 気を遣わなくていいんじゃないの」

「そうはいかないでしょ? あんたの未来の就職先だし昔からの付き合いだからね。本音を言えば、そりゃ違和感もあるわよ。ついこの間、御香典を包んだばかりな気がするし……」

 そう行って言葉を切った母親だったが、トーンを上げ直して再度口を開く。

「とにかく! 二十歳過ぎたからって飲みすぎないこと、粗相しないこと! お祝いの場だし、失礼のないようにするのよ」

「分かってるって、大丈夫だよ窓もいっちゃんも一緒だから」

「それが逆に心配なのよね……」

 困ったような顔で笑う母親に背を向け、礼史は玄関の戸を開けた。

「じゃ、行ってきます」

「はい、気を付けて」

 礼史は背中越しに手を上げると、そのまま外に飛び出して行った。母親はしばらくその場に立って、玄関の戸がゆっくりと閉じていくのを見つめていた。

 祝いの場に息子を送り出したというよりも、戦地に向かう息子を見送ったというような、何とも憂いを秘めた瞳だった。

「……尋美さん、これでいいの?」

 自分にすら届きそうもない、か細い声でそう独りごちると、母親はやおら足を動かし、リビングの方へと戻って行った。


 ◆◆◆◆


 礼史は玄関から飛び出た後、軽い足取りで坂道を下って行った。そして下りきったところの交差点に、見慣れた人影を見つけた。

 礼史は大きく手を振りながら、その人物に近づいて行く。

 黒い細身のスーツに、清潔感のあるミディアムロングの黒髪。センターパートに整えられた前髪の間からは父親に似てよく通った鼻筋と、母親に似た猫のような大きくて円い瞳がのぞく。

 こんなありふれた住宅街に存在していることが不自然に思えるような、眉目秀麗でスタイリッシュな青年がそこにいた。田丸窓たまるそうだ。

 数メートルのところまで近づいたところで礼史が声を発する。

「早かったな、窓!」

「礼史こそ。雨どころかひょうでも降るんじゃないの」

「失礼な! 遅れていいとこ悪いとこの区別くらいあるっての!」

「礼史、分別ある大人に遅れていいところなんて存在しないよ」

「やかましいわ」

 応酬を一つ区切ったところで、二人同時に笑った。

 礼史が腕時計を見ながら呟いた。

「しかしちょっと早いよな」

「いいんじゃない? 遅れるよりは。一香いつかなんてもう会場だって」

 礼史は驚いた表情で目を見開いた。

「え、いっちゃん早くね!?」

「父親が今日の会の発案者だからね、設営の手伝いがあるんだって」

 窓は礼史の反応に少し笑いながらも、淡々と状況を説明した。

「なるほど。てか、やっぱ今日の会って帆ノ宮ほのみやさんから言い出したのか」

「あの狸親父タヌキオヤジ以外にそんなこと言うやついないでしょ」

 窓は冷めた目つきで突き放すようにそう発する。礼史が茶化すような視線を窓に向ける。

「おいおい窓ちゃん、未来のお義父さんかも知れない人に狸親父は駄目だろ?」

「大丈夫、僕の化けの皮はそう簡単には剥がせないよ。ていうか――」

 窓は眉を顰めた。そして瞳を細かく震わせた。

「――結婚なんて、僕には縁遠いって」

 礼史はその様子を見て、自分の親友が今日のことを割り切れているのか、些か不安を覚えた。窓の性格から考えれば、今回の婚礼に意義を申し立てるならば、今日のこの会自体をボイコットしそうなものだ。

 それでも窓はここにいて、しかし腹に一物を抱えたような不穏な雰囲気を醸し出す。親友ながら、今日の窓ばかりは、蒼人あおとの言う「何を考えているか分からない」に同調せざるを得ないと感じられた。

 そんな礼史の様子を知ってか知らずか、

「大丈夫だよ」

 と発すると、窓は笑顔を作ってみせた。

 間違いなく美しい笑顔であるはずなのに、オブラートに認められたデッサンのように希薄な印象を礼史に残した。

「時間的にはバスが丁度いいかな。礼史、少し早足で行くよ」

 歩調を速めた窓に追いつかんと、礼史も足を動かした。

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