聖者の舞踏

尾八原ジュージ

どこかの国の昔話

 モウワカクナインヤナ山の山頂には暗雲が立ち込めていた。麓の人々は青褪めた面をもってそれを見守るばかりである。今まさにここに希代の怪物と、名もなき呪術師との死闘が繰り広げられていたのであった。

 千年の封印を破って蘇った魔物、サムイトカタトクビバッキバキニナルネンは、その悍ましき力を持って人々を苦しめていた。しかし今、百の眼と千の牙を持ち、山全体に届く腕を持つこの魔物は、今まさに自分を追い詰めようとするたった一人のちっぽけな人間を、驚愕をもって迎えていた。

 薄汚れた着物をまとい、頭に大きな傘を被った得体の知れない男であった。筋骨隆々とした体つきと無数の傷跡からは、これまで重ねてきた厳しい修行と、潜ってきた修羅場の数が伺える。にも関わらずこの男は無名であった。名誉も金銭も欲しようとはしなかった。彼はただ、一体でも多くの魔物を調伏し、そして人々の暮らしを守る、その一念のみに突き動かされていたのだ。

 彼によって今、サムイトカタトクビバッキバキニナルネンは山頂へと追い詰められている。そこにはかつて彼が封じ込められていた祠が、今はその封印を失い、虚となった内部を晒している。

 サムイトカタトクビバッキバキニナルネンは絶望を知らなかった。彼は知っているのだ。人間の体力はいつか尽きるということを。そして祠の封印は完全に破壊されており、新たな封印を施すには、百日にもわたる祈祷が必要であることを。

 サムイトカタトクビバッキバキニナルネンは人の言葉を知らぬため、ただ哄笑した。その声は耳にした人々の背筋を尽く凍らせ、すぐさま肩をぐるぐる回さないと腕が上がらなくなる程ゴリゴリに凝らせた。しかし呪術師は退かない。哄笑が衝撃波となり、衣服が千切れ吹き飛んでもなおそこに立っていた。翳した両手にはただならぬ力が宿り、輝きとなってサムイトカタトクビバッキバキニナルネンを圧倒する。

 一歩ずつ、一歩ずつ、呪術師は妖物を祠へと追い込んでいった。巨大な体躯が煙のように形を変え、祠の中へと吸い込まれていく。しかしサムイトカタトクビバッキバキニナルネンは、闇の中でなおも嗤っていた。この祠の封印が破られている以上、ここに彼を閉じ込めることはできない!

 そのとき、服をすべて吹き飛ばされ、全裸になった呪術師が大音声を上げた。

「びっくりするほどユートピア!」

 その声は驚くほど澄んだ音色をもって、高らかに響き渡った。

 続いて呪術師は自らの尻をバンバンと叩く。その音は高く山々に木霊し、人々のおそれを祓った。祠の前には寝台ほどの平らな石が置かれている。呪術師は白目を剥くと、そこに片脚でもって飛び乗り、またも叫んだ。

「びっくりするほどユートピア!」

 かと思えば猩々のように跳躍し、もう片方の足で地面を踏みしめる。

「びっくりするほどユートピア!」

 この動きを、彼は祠の前で延々と繰り返した。

「びっくりするほどユートピア!」

「びっくりするほどユートピア!」

 なんと名状し難い動き! サムイトカタトクビバッキバキニナルネンは恐怖していた。力が出ない。全裸の男による奇妙奇天烈な舞を見、掛け声を聞くと、どういうわけか彼の手足からは、力が抜けてしまうのである。

 ようやく麓の街から百人の僧侶が駆けつけ、封印のための祈祷を始めた。その間、呪術師はなおも動き続ける。足踏みが地面を揺るがし、掛け声は木々をざわめかせる。サムイトカタトクビバッキバキニナルネンは祠の中に押し込められたままであった。

 僧侶たちは交代で祈祷を続けた。実に百日もの間それは続き、祈祷師は少しも休むことなく舞踏を続けた。

 そしてついに百日後、サムイトカタトクビバッキバキニナルネンが封印されたのを見届けた彼はその場にばったりと倒れ、再び起き上がることはなかった。だが、その顔には穏やかな笑みが刻まれていた。

 英雄の死に人々は涙した。そして無名の呪術師を盛大に弔うと共に、祠の横に立派な墓を建てた。今もその地には多くの花束が捧げられ、人々は肩凝りなどの症状に見舞われると、彼の墓を訪れるのである。

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