びっくりするほどユートピア

惟風

びっくりするほどユートピア

 同棲していたユキが家を出て行った。

 それは突然だった。

 出会って四年、人生の帳尻を合わせるように付き合い出してから、三年が経っていた。

 俺が残業を終えて玄関を開けると、粗方の家財道具が無くなっていた。

 どうして。

 ルーティンに流されるままスーツのジャケットを脱ぎながら、ただ考える。

 いや、突然なんかじゃない。自嘲気味に笑って、腕時計を外した。

 あいつはもうずっと前から、能面のような顔でいたじゃないか。

 カチャカチャとベルトを外す音がいやに大きく聞える。

 唯一残されたベッドの上に、俺の名義の通帳と印鑑、そして「ケンジへ」と書かれた封筒が置かれている。

 ズボンを降ろして、手紙を読んだ。

 ユキらしい、品の良い文字でただ一言「さよなら」とだけあった。


「ははっ」


 思わず漏れ出た笑い声は、喉に張り付いて掠れていた。

 知り合ってすぐは、どこにでもいる地味な女としか思っていなかった。

 靴下を丸めて放り投げた。

 だが、距離が近くなるにつれて、その情の深さにのめり込むようになっていった。

 あいつの優しさが底なし沼のように俺を受け止めてくれるから、何をしても許される気がした。

 眼鏡を枕元にそっと置いた。

 浮気をしないでと何度も泣かれた。

 家賃を払ってと幾度も叫ばれた。

 それでも、一頻ひとしきり騒いだ後には「ダメな男に引っかかっちゃったわ」なんて笑っていたから。

 やり過ごせた、って安心してしまっていたんだ。

 最後に肌に残ったパンツを静かに脱いだ。

 俺、どうしようもないな。

 ベッドに向き直る。

 どうしようもない、馬鹿な男だ。

 両手を振り上げて、力の限り尻を叩いた。

 乾いた音が、一人きりの部屋に響く。

 ぶっ叩いた。何度も。何度も。

 いつの間にか、俺の目からは涙が溢れていた。

 顔を上げて、白目をむく。


「びっくりするほどユートピア!!!」


 孤独な獣の咆哮。

 千切れそうな喉の痛み。

 休まず尻を打ちながら、ゆっくりとベッドを昇って、降りる。何度も。何度も。

 薄れゆく意識の中で、俺は最愛の人の笑顔を想った。


 幸せになれよ、ユキ。





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