第10話
私が先生の事を好きになったのは、いつからだろう。部活案内の時初めて先生を見て、
他の人とは何か違う人だと思った。まるで特別な色を持ったウミウシのように。すると何故か自然と目で追いかけるようになった。となると好きだと自覚するのはもっと後になってからにしろ、出会った時から私は先生の事が好きだったのだろう。恋には理由がなく時間差があるみたいだ。
いつも眠たげな弛んだ瞼、癖のある髪の毛。背は高いけど痩せている身体。先生を見ると、私は先生になりたいと思う。
「先生」
私は先生を見つけると、いつも声をかける。別に用があるわけではない。声をかけてからいつも考える。
「なんだ。立木か」
いつも先生は気だるげに、めんどくさそうに私に対応する。まるでなつきすぎる犬を相手にしているようだ。
「先生は、いつもなんでそんなに眠そうなの?寝不足なの?」
「どうも騒がしく、暖かい場所だと眠くなるんだ。電車とか眠くなるだろ?」
「うーん、確かに」
先生は秘密主義者だ。いつも本心を隠している。適当な事を言ってはぐらかし、それを悟られてもかまわないといった感じで、私を対等と思ってない。まったくふてぶてしい事この上ない。
「先生は私の事どう思う?」
「どうって?」
「女としてどう思う?」
「男か女かで言うと女だと思う」
「先生・・・」
私は先生を睨んだ。すると先生は、ほくそえんだ。そして私はため息をつく。いつものやり取りだ。それはとても心地よいやり取りだ。けど同時に、私はいつももう一歩、もう一歩だけと、先生に近付きたくなる。
「先生は彼女いるの?」
「いないよ」
先生ははぐらかしたり、話をすり替えるけど、基本嘘は少ない人だ。
「最後に彼女がいたのはいつ?」
「もう10年も前の事だよ」
自然と顔がにやつく。
「そうなんだ。先生ふられたんでしょ?」
「そうだけど、そんな決めつける事ないだろ?」
「だって、先生と付き合える人なんて、限られてると思うんだもん」
「それは、とても傷つくな」
「先生は適当だし、めんどくさがりだし、意地悪だし、それを可愛いと思える人なんて・・・」
私だけだよ・・・。と言うつもりが、言えなかった。私は無性に恥ずかしくなった。例え言った所で、先生は余裕の微笑を称え、話をいなすだけだ。そうなると私は更に子供っぽくなり、更に対等な関係から遠ざかる。先生はずるい。
「立木」
榎田が手を降りながら、やってきた。
「部活終わった?一緒に帰らない?」
「うん・・・」
本当は榎田なんかと一緒に帰りたくない。榎田は伊根さんの彼氏だし、ガチャガチャの外れ人形みたいにまったく興味が湧かない。けれど、私と先生との間に入って喋って欲しくない。だから私は榎田を遠ざけるために、一緒に帰る事にした。
「ねえ、立木これからカラオケ行かない?」榎田が発情期の犬のような顔で言った。
「行かない」
「えー、なんで?たまには一緒に行こうよ」
「バイトがあるから」
「えっ、どこでバイトしてるの?」
「教えない」
「もー、クールなんだから」
「ねえ、榎田君、伊根さんと帰りなよ。私と帰ってるところ見られたら変な勘違いされるよ」
「変な勘違いって?」
「聞かなくてもわかるでしょ?」
「俺は立木の事、本気なんだ。伊根さんとは別れてもいい」
そんな事知らないし・・・、あー、気分が悪い。でも、もしかして先生もこんな気持ちなのかもしれないな・・・。
「ねえ、私のどこが好きなの?」
「うーん、クールに見えて、優しく友達思いな所とか、真面目な所とか」
「じゃあ、残念だね。それについてひとつも当てはまっていないよ。私、性格悪いから」
「そんな事ない。君は優しい子だよ。俺本気なんだ」
本気で彼女以外の女とヤりたいだけだろ・・・。
「考えさせて、今日はこれでごめんね」
「うん、わかった・・・」
榎田と別れ、歩道橋の上から行き来する車を見ていた。
あー、もうちょっとしたたかに生きれたらな。
先生もこんな気持ちで迷惑してたら嫌だな。嫌だな・・・。
先生との思い出全てが私の独りよがりだと感じ、私は歩道橋の上で泣いてしまった。
榎田と何度か一緒に帰ったせいで、笑っちゃうくらい可笑しな噂が広まってしまった。私が榎田にアピールして榎田が困っているといった内容だった。
おそらく伊根さんに問い詰められた榎田が、嘘でもついたのだろう。噂が広まってからというもの榎田は私に近付いてこない。それどころか、クラス全員が私を避けるようになった。伊根さんが勝手な神話を作り出し、そうさせたのだろう。伊根さんはそういう力があった。私の居場所は部活しかなかった。部活のみんなは、いつも通り接してくれるし、何より先生がいる。別に先生に悩みを聞いてもらうつもりなんてない、先生といる自分が本当の自分なんて言うつもりもない。ただ私は先生と接している自分が好きなんだ。
でも残念だけど今日は部活がない。演劇部は月水金しか活動していない。けれど先生がいるかもしれないと思い、私は部室へと向かった。
部室を覗くと、先生は机に突っ伏して寝ていた。癖のある髪が、埃で遊ぶ猫のように跳ねている。何か夢でも見ているのかな。先生の寝顔を見ながら、先生の夢の中に行けたらいいのにと思った。
ふと、先生の机の脇に原稿用紙があるのに気がついた。作文だろうか?先生は世界史の先生だから作文なんて変だなと思った。
勝手に見るのも憚れたので、私はいつものように先生を起こす事にした。先生を起こすのが私の役目なのだ。
「先生」
「ん、立木・・・。今日は部活じゃないだろ?」
先生は上体を起こし欠伸をした。
「たまたまね。先生って部活がなくてもここで寝ているんだね」
「ああ、この時間に寝るのが癖になっているみたいだ」
「先生、夜中に何かしているんじゃない?」
「ついにバレたか、実は見回り先生をしてるんだ」
「またわかりやすい嘘ついてる」
先生は薄く笑って「それより部活ないんだから、こんな所で油売ってないで寄り道は程ほどに帰りなよ」と言った。
「先生、一緒に帰ろうよ」
「馬鹿。仕事があるんだよ」
「寝てたくせに・・・。わかりましたよ。言いつけ通り帰ります。先生も寝過ぎて明日の朝にならないようにね」
「はいよ」と先生は手を振った。
家に帰ると誰もいない。お父さんはまた飲み歩いているのだろう。私はパスタを茹でてペペロンチーノを作り、コンビニで買ったサラダと一緒に食べた。そして部屋のベッドに寝転んだ。
癪だけど、いつも考えるのは先生の事だった。
嫌だ、嫌だ。先生の言葉ばかり頭のどこからか出てくる。私は無性に腹がたった。こんな不公平な事があっていいのだろうか。
先生の寝顔可愛かった・・・。先生はどんな夢を見るのかな。
「うー」私は枕に顔を埋め唸った。
このままだと先生に埋もれて窒息しそうだ。私は気分転換に演劇部の台本を読む事にした。
『夢と現実に違いなんてないよ』
先生の言葉が頭を過る。
「もう、出てくるな!」
私は叫んだ。
昼休み、教室の空気に堪えかねて私は図書室へ向かった。そして夢についての本を探した。その中で私はユングについての本を手に取った。
かなり難しい。集合的無意識だとか、シンクロニシティと言われても私の頭では上手く理解する事ができなかった。
でも良い口実を手に入れた。
部活終わりに、いつものように先生の所へ行き話しかけた。
「ねえ先生、教えて欲しい事があるんだけど」
「うん?なんだ?流行りのコスメについてか?」
「あのさ、先生にそんな事相談しないし、先生も答えられないでしょ。先生、ユングって知ってる?」
「知ってるけど、いきなりユングについて教えて欲しいなんて、立木は変わっているな」
誰のせいだと思っているんだ。まったく。
「倫理の授業で疑問に思っている事があるの。集合的無意識についてなんだけど、これってどういう意味なの?人間の意識は、心の奥ではみんな繋がっているっていう事?」
「さて、どうだろう。人間の心については、宇宙より解明されていない部分が多いと言うし、ユングの唱える説の一つでしかないと思う。けれど、例えば音楽を聞いて感情を刺激されたり、文章を読んで情景を思い浮かべる事があると思う」
「うん、ある」
「それは誰しもそうだと思うし、何故か時代や人種、国に関係なく共通のイメージを持つ事がある。ユングはその理由を個人の無意識より深くに人類に共通する集合的無意識があるからだと唱えたんだ」
「じゃあ、私が芸術とかを見て感じるイメージは、先生も同じものを感じている可能性があるって事?」
「そうだね」
「それって素敵だな・・・。じゃあ夢って何なの?」
「記憶の整理だとか言われたりしているが、ユングは集合的無意識からのメッセージだと表現している。だから全てではないにしろ夢には意味があるのかもしれないな」
「夢には意味がある・・・。でも先生妙に詳しいね」
「昔調べた事があってね」
「先生、過去と夢は一緒だって言ってたよね」
「過去の記憶も夢もイメージだからね。だから芝浜の旦那は過去の記憶を夢と勘違いした」
「確かに。でも夢は集合的無意識からのメッセージなら、過去の記憶とは違うんじゃないの?」
「過去の記憶というものは夢のようにとても不安定だと思う。時間とともに変化もするし、自身でいくらでも脚色できる。真実の過去というものは、主観を含み個人的な真実になっていく。だからこそ真実は人の数だけ幾通りもあり、真実の過去というものは存在しない。けれど集合的無意識により記憶というものが脚色されているとすれば過去もまた夢と同じという事になる」
「ごめん先生、頭が痛くなってきた」私は頭を押さえた。「じゃあ先生、先生が見る夢を私が見るなんていう事はできるのかな?」
「ひとつ方法があるよ」
「本当?」
先生を見ると微笑んでいる。
「なんで笑っているの?」
「いや、別に、立木そろそろ帰りなよ」
先生はそう言っていつものように曖昧にした。でもなんとなくわかった。何故私は先生になりたいと思っていたのか、夢であれ、過去であれ、私は先生の見ているものを見て共感したいからだ。
けれど先生は見せてくれない。
ねえ、先生、それは先生が教師で私が生徒だからなの?
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