第9話

 仕事終わりにトオルに呼び出され、駅前のバーへと来た。トオルは随分前から来ているらしく、僕が来てからも飲むペースが早く、顔は赤黒くなっていた。

「お前良いことでもあったのか?」とトオルが赤黒い顔で微笑んだ。

「何で?」僕はピスタチオを齧りながら言った。

「顔に生気がある」

「というと前まで、顔が死んでいたんだな」

「そうだな。生きる屍のようだった」

「はっきり言うなよ、俺だって傷付く時は傷付く。まぁ、たぶん、面白い生徒がいてな。そいつのお陰かもしれないな」

「おっ、女か?」

「ああ」

「かわいいのか?」

「ああ・・・」

「どんな顔?」トオルはウキウキとしている。

「顔?うーん、切れ長の大きな目のクールな感じ」

「いいな。禁断の恋というやつじゃないのか?」

「そんな事にはなってないよ」

「どうして?世間なんて気にする性格じゃないだろ?そもそもお前には社会というものが欠落している」

「まだ子供なんだよ。憧れと恋を混同しているんだ」

「という事は、向こうも気があるのか?」

 僕は頭を掻いた。

「お前が俺の立場だったらどうする?生徒と恋愛できるか?」

「できるに決まっているだろ?若くて可愛いなら」

「やれやれ、お前は社会とモラルも欠落している」

「モラルね。それは人間の勝手に作り出した虚構に過ぎないさ。人間の本質とは遠いものだ。モラルなど、文学にしか役にたたないさ。モラルなど持ち出して人生を俯瞰するのはやめろ」

「今日はやけに当たりが強いな」

「友達を心配しているだけさ。今、目の前にあるものを大事にして欲しいのさ」

「そういうものだって、いつか手から離れていく。それがわかっているのさ。彼女は若い。それだけ可能性があるって箏だよ。俺なんかに時間をさいて欲しくない」

「やっぱり自分が傷つきたくないだけだ」

「否定はしないよ。歳をとると頑丈になると思っていたけどそうでもないみたいだ」

「まだ夢に生きるんだな」

「ああ、そのつもりだ」

「お前は過去と未来にがんじがらめだ。一体、お前の今を見てくれているのは誰だろうな?」

 トオルは、眠たいのか虚ろな目で僕を見た。


 最近、立木の表情は部活でも物悲しく見えるようになった。僕は心配になり、部活終わりに立木に話しかけた。

「なあ、立木」

「なあに、先生」

 気のせいか、どこか無理をしている表情に感じる。

「君は何か、悩みがあるんじゃないのか?」

「先生の責任じゃないの?」

「というより、何か問題があって、俺に執着しているんじゃないのか?」

「なにそれ」

 立木はその切れ長の目で僕を睨んだ。口元は引き締まり、初めて見る立木の怒った姿だった。

「私が助けて欲しいから、先生にまとわりついているって思ってるの?」

 立木は興奮しながら早口で言っている。

「先生の言いそうな箏だね。私の気持ちが、頼りたい気持ちの裏返しだとか、ファーザーコンプレックスだとか勝手に分析しているんでしょ?だからそれは本当の恋じゃないから、違う相手を探せとか、そんな風に話をまとめようとしてるんでしょ」

「違うよ。怒るなよ」

「先生が悪いんじゃない!」立木は声を荒げた。

「私の気持ちを知りながら強く拒否する訳でもなく分析だけして、後回しにして、都合の良いときだけ子供扱いして・・・、私の気分が移るのを待っているだけなんだもん・・・」

「落ち着けよ」

「じゃあ、私の事好きか嫌いか言って・・・、ここで」

 立木はジッと僕を見た。過去でもなく未来でもなく、今の僕を見逃すまいとジッと見ている。

 僕はモラルや固定概念を廃し、できるだけ心の奥の方からの気持ちを言葉へと変換した。すると喉の奥から「好きだよ・・・」という言葉が生まれた。

「本当?」立木は大きな目を見開いている。

「ああ」

「一人の女性として?」

「ああ」

 立木は俯き黙っている。そして顔を上げ「よくできました」と一変笑顔になった。

「録音したからね。もう言い逃れはできないよ」

「・・・」

「先生、私の箏が好きなんだ。そっか、そっか、困るよね先生、ネットにアップされたらさ。どうしよっかな、何してもらおうかな」

「ゆするのかい?」

「そうだよ。私、欲しい物あるんだ」

「残念だけど俺は困らないよ。教員を辞めなければいけないかもしれない。けれど困らない。この街にいれないかもしれない。それも困らない。俺には何もないからね」

「くず野郎だね」

「君にそんな事言えるのかい?俺から金でも取ってある程度満足したら、ばらして今度はそれを楽しむのか?わかっているのか?何も失う事のない人間から嫌悪されるということを理解しているのか?そういった人間は多くいるんだ。だから立木・・・、こんな事はやめろ・・・」

 立木は僕をジッと見て「消したよ。じゃあね先生、もう先生で遊ぶのも飽きちゃった。バイバーイ」と言って、走って教室を出て行った。

 立木はそれから部活動に来なかった。どうやら学校を休んでいるようだった。


 職員室で昼食をとっていると、安田先生が僕の席までやって来た。

「あの、先生」

「何でしょうか?」

 安田先生は不安そうな顔をしていた。

「先生、以前立木さんの事気にされていましたよね?」

「ええ、まあ」

「立木さん、ずっと無断で学校休んでいて」

「そうらしいですね」

「先生、立木さんですけど、どうも榎田君と彼女の伊根さんと三角関係になってるみたいなんです。事情はよくわからないんですけど、立木さんが榎田君を誘惑したとか、それを伊根さんが恨んでクラス全員に立木さんを無視させたみたいなんです」

「クラス全員が無視ですか、伊根のグループから無視とかはわかるんですが」

「伊根さんは悲劇のヒロインを演じるのが上手というか、人を悪者にするのが上手なのです。言葉巧みにクラス全員を味方にしたんでしょう。あの子そんな雰囲気ありませんか?」

「確かにそうですね」

「本当は一時的にすますつもりだったと思いますよ。でも立木さんは立木さんでクールというか、大人びているというか、あまり気にする素振りもなかったみたいです。それが伊根さんグループには更に気に入らなかったみたいで、引き返せなくなっているんじゃないでしょうか」

「それで安田先生は、立木の家庭訪問をなさるおつもりでしょうか?」

「ええ、これ以上欠席が続くとそうなりますね。そこで先生、そうなった際に同席して頂けないでしょうか?」

「私にですか?」

「あの、こんな事言うの情けないのですが、私説得する自信がなくて。立木さんはとても賢い子ですし、そしてどこか冷たいっていうのか・・・」

「立木は動物で例えるとカエルですよ」

「カエル・・・?」

「いえ、気にしないで下さい。家庭訪問の件は了解しました」

「ありがとうございます。助かります」


 それから3日経っても立木は学校に来なかった。立木の父親と連絡が取れたようで放課後安田先生と一緒に立木の家を訪問する事になった。立木の家は白い漆喰の平屋で、何故かカーテンが掛かっていなく、家の雑草も伸び放題だった。

 家のインターホンを押すと、暫くしてジーンズに白い無地のTシャツを着た立木が姿を見せた。

 安田先生が「立木さん久しぶりね。お父さんはいる?」と言った。

「いませんよ。仕事か、飲みに行ってるんじゃないですか?」

「お父さんから、今日家庭訪問するって聞いてなかった?」

「聞いてませんよ。あの人、めんどくさくなって、どっか行っちゃったんじゃないですか?まあ、これからの事の話し合いですよね。ここじゃなんなんで、散らかってますが、どうぞ上がって下さい」

 僕と安田先生は、家の中へ通された。その時立木と目があった。瞬間立木は目をそらした。

「すいません。私の部屋が一番綺麗なので、ここで」と立木の自室に案内された。立木の部屋は綺麗に片付けられていたけれど、通った廊下や見える台所にはゴミが散乱していた。

「立木さん、どうしたの?体調が悪かったの?」安田先生が言った。

「まあ、そうですね。だから、もう少ししたら行きますよ」

「ねえ、立木さん、友達に嫌がらせを受けてたりするのかな?」

「そうですね。無視されてますね」

「立木さん、辛いと思うけど、先生が味方だからね。これからは何かあったら先生に相談してくれないかな?」

「ありがとうございます。けど馬鹿みたいじゃないですか?しょうもない男を取った、取られたって騒いで、こんな世界がずっと続くなんて、とても馬鹿みたいと思って、少し学校が嫌になって、体調まで悪くなっちゃた。けど少し落ち着きましたんで」

「立木さんは将来の夢はないの?」

「夢ですか?そうですね、好きな人と2人で暮らしたい。こんな狭い所から抜け出して2人で色々な事話して、散歩したり、食事したりする。ただそれだけ。ごめんなさい馬鹿みたいですね」そう言って立木は笑った。

「ううん、いい夢だと思う。これから立木さんは色々な夢を叶えていくんだから。希望を持って頑張って行こう」

「わかりました。安田先生はいい人ですね。明日からまた学校へ行きます」

「うん、待ってるからね」

「先生」と言って、立木は僕を見て「部活の相談良いですか?」と言った。

「ああ、安田先生、後は私が話しますので」と僕は言った。

「わかりました。お願いします」

 安田先生は場を後にした。

「先生どう思った?」

「どちらかと言うと問題を抱えているのは伊根の方だ。伊根の相談に乗るべきだと俺は思う。君には何も問題はない」

「はは、先生は先生だな」と立木は笑った。

「先生この前の事、怒ってる?」

「ショックで部活動に身が入らない」

「いつもの事じゃない」

「そうだな」

 僕らは夕日が差し込む白い部屋の中、親密に笑いあった。

「あのね先生」

 まるで子供のような声で立木は言った。

「うん?」

「怖くなったの。何かとても怖くなった。クラスの全員に無視されても何も怖くなかったけど、先生が私の事好きって言ってくれて無性に怖くなった。本当は飛び上がるくらい、とても嬉しかった。でもこの先、先生は多分私の事嫌いになるんだろうなって、拒絶するんだろうなって思うと、とても怖くなって、胸が苦しくなって・・・」

 立木は胸を押さえ泣き出した。

 僕は立木を抱き寄せた。立木は僕の腕の中で目を閉じた。

「先生・・・、このまま違う所に行って、違う人になって人生を生きない?秩父あたりの田舎に行って、5万円くらいで家を借りて、大きなベッドを買って、ベランダでハーブを育てるの。いいと思わない?」

「ああ、とてもいい。でも良いのかい?俺は君の幸せを奪ってしまうかもしれない。君の可能性を小さくするかもしれない。もっと君は幸せになれるかもしれない。もっと君に合う人がいるかもしれない」

「どんなにお金があっても、どんなに物で満たされていても、そんな人生馬鹿みたい。私はただ、あなたがいればそれでいい」

「君を離さない。今度は絶対に」僕は立木を強く抱き締めた。

「今度?」

 その時、部屋の扉が開いた。そこには、安田先生と短髪の大柄な中年の男性が呆然の表情で抱き合う僕らを見ていた。

「先生、立木さん、あなた達何をしているの・・・?」安田先生が震えた声で言った。

 中年の男性は、突進するように僕と立木を引き離し「あんた娘に何やってるんだ!」と僕の顔を睨み付け怒鳴った。

「お父さん、やめて!お父さんには関係ない!」と立木は言った。

「関係ない訳ないだろ!あんた教師だろ?自分が何やってるのかわかってるのか?犯罪だぞ!」

「私が一方的にした事です。どんな処分でも受けます」

「処分だ?そんな事ですむと思っているのか!」

「違う!違う!私が・・・」立木が言った。

「お前は黙っとけ!」

「何が黙っとけよ!今までどこにいたのよ。その顔、飲みに行ってたんでしょ!お母さんが死んだ時だって、そうやって飲みに行って、何も父親らしい事せずに、私達から逃げて、今さら父親面して私の事に口挟まないでよ」

 立木は目を涙で一杯にし、肩で息をしている。父親も切ない顔をし肩で息をしている。

 暫くの沈黙の後「・・・親子で話す、あんた達は帰ってくれ」と立木の父親は言った。

 

 立木の家を出ると「先生・・・」と安田先生は僕を見た。

「安田先生、学校に戻り報告します。申し訳ないですが、ご迷惑をお掛けする事になると思います。すいません」

「はい・・・」安田先生は不安からか、軽蔑からか僕を辛そうな顔で見た。


 僕は学校に戻り、校長へ報告し退職願を出した。それから校長は教育委員会へ報告する事になる。それがどこまでの報告なのか、立木との面談の後、校長の判断になる。立木がもし僕の責任にしなければ、立木への処分もあるかもしれない。

 その日、僕は眠らず机に向かっていた。立木と話しがしたい・・・。いや言葉では何も表せそうにない。自分の気持ち全てを伝えられる術があればいいのに。

 僕は夜の散歩に出掛けた。

 星ひとつない夜の空を見上げる。嗚呼、何も見えやしない・・・。

 横断歩道で信号待ちをしていると、道路の向かいに誰かがいた。

 あれは・・・、三上さん?

 僕は見えない何かに背中を押されるように歩き出した。すると眩しい光に照らされ、身体の衝撃とともに、あたりは真っ暗になった。

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