第8話

 三上さんからの最後の電話があったのは、5年前の街全体に霜が降りたかなり冷え込んだ冬の朝の事だった。

「稲沢君、久しぶり、私の事覚えている?」

「あたり前じゃないか。久しぶりだね・・・」

「急にごめんね。今から時間ある?会ってくれないかな?」

「何かあったの?」

「うん・・・」

「何かないと連絡しないよね」

 暫くの沈黙に耳をすますと、電話口から三上さんのすすり泣く声が聞こえた。

「ごめんなさい・・・。迷惑だと思うんだけど、どうしても一人じゃ抱えきれなくて」

「僕が力になれるのかな?」

 また暫く沈黙があり「私、人を殺したの」と三上さんは言った。

 三上さんは今何を言ったのだろう。僕は言葉の意味を理解するのに時間がかかった。

「殺した?一体誰を?」

「多分彼氏・・・」

「多分って事は覚えていないんだね」

「うん、夢で見たの」

「夢は夢だよ。実際に起こった事じゃない」

「ううん、起こった事だよ。全ては私が彼を殺した事から始まっているの。私の記憶喪失はそれが原因で起こっているのよ。そして徐々に夢という形で思いだして、過去に変わっていっている」

「でもはっきりと記憶は戻っていないんだろ?」

「だから確かめたいの」

「三上さん、聞いてくれ。確かめてどうなるっていうんだい。罪を償うっていうのかい?記憶がさだかじゃないんだから罪を償う事なんてできないんじゃないの?」

「わからない。でもとても怖い。私は今、まるで夢の中にいるみたいなの」

「夢の中に?」

「ずっと夢の中にいる気がする。私って一体何?記憶もない。一人ぼっち。誰が私の現実での存在を証明してくれるの?」

 俺がいるじゃないかと言いたい自分がいた。けれど、三上さんの記憶は俺も持っていない。断片的にあるだけだった。そんな僕が彼女の存在を証明する事はできなかった。

「ねえ、三上さん、俺と一緒に暮らすっていうのはどうだろう?」

「稲村君と?」

「ああ、俺は君の記憶が断片的にしかないし、現実では何の繋がりもないけれど、何故か夢の中で繋がっている。だから一緒に過ごして、現実の思い出を作るんだ。そして現実と再接続するんだよ。それが三上さんの存在証明になると思うんだ」

「稲村君はいいの?」

「ああ、俺のアパートは手狭だけど、それでいいならこっちに来ないか?」

「ありがとう稲村君」


 そうして僕と、三上さんの奇妙な共同生活が始まった。

 三上さんは猫のように生活がかなり不規則な人だった。寝たい時に眠り、食べたい時に食事をする。いつもソファーで横になり、本を読んだり、音楽を聴いたりする。仕事はフリーでWEBデザイナーをしており、夜に仕事をしたり、昼にしたり、規則性がない。僕は基本的に規則的な生活をしているので、一緒に住んでいるが、それぞれ独立している。恋人とも違い、家族とも違う。そんな二人での生活は、思ったより、居心地が良かった。

 たまに二人のリズムが合う時がある。そんな時は、一緒に散歩に出掛けたり、買い物をしたりする。二人で眠る時もある。キスをする時もある。けれどセックスはしない。何故だか2人の生活には必要のないものだった。それは三上さんも同じ気持ちだったのだろう。ルールというほどの物ではないが、お互いの約束のようなものだった。

 そんなある日、二人のリズムが合った日、僕らは長瀞へ行く事になった。そう、彼女が亡くなった長瀞へ。

 僕はあれから長瀞へは行っていない。僕は今、穏やかな気持ちで三上さんと暮らしている。けれど彼女は、あの日、若いまま死んでしまった。これからできる事を全て剥奪され、死んでしまった。それを思うと、何か申し訳ない気持ちになった。その他にも、冥福、贖罪、忘却、色々な念が、僕を長瀞から遠ざけていた。

 けれど三上さんは、それは誰かのためではなく、自分のために行くものだと言ってくれた。死者は何も語らない。語るすべがない。自分の心の中にしかいない。それを沈めるために行った方がいいと、それを私が見守ると言ってくれた。

 そういう事で僕たちは二人で長瀞へ向かった。電車を乗り継ぎ、タクシーに乗って事故のあった川まで来た。

 そして三上さんと一緒に、川岸まで降りていき、彼女が好きだった水仙の花を一輪川に流した。

 流れていく水仙を見ながら思った。まるで川は人生のようだ。流れ、淀み、合流し、海へと流れ消えていく。

 

 その日、近くの旅館へと泊まり、温泉に入った。心が落ち着いている。三上さんとの生活がこうさせているのだろう。自分を観測してくれる誰かがいる。それはとてもありがたい事だと気付いた。


 温泉から上がると、三上さんは縁側で日本酒を飲んでいた。

「稲沢君も何か飲む?」

「じゃあ、ビールを」

 三上さんは冷蔵庫からビールを出し、コップに注いでくれた。

 窓の外から川のせせらぎが聞こえる。

「とても穏やかだ」

 僕は何かの確認の様に言った。

「そうだね」

 三上さんもとてもリラックスしていた。

「全て忘れてしまいそうだ」僕はそう言って気づいた。しまったと思った。

「いいのよ。忘れなくちゃいけなかったと思うの。だから忘れた。だからこうやって稲村君と穏やかな時間を過ごせている。だけど、稲村君、私は時間によって裁かれると思うの」

「どういう事だい?」

「この時間は長くは続かないという事。穏やかな時間は川の流れの中に漂っている浮木のような物、今は稲村君という浮木に捕まり穏やかな流れの中にいる。けれど長くは続かない」

「僕は頼りないという事?」

「違うよ。とても捕まりやすい」

 そうやって三上さんは僕の腕を触った。そしてそっと僕の頬にキスをした。三上さんは僕の腕の中で猫のように小さく丸まり「お願い、もう少しだけ私を捕まえていて」と言った。

 何故だろう、朝には三上さんが消えていなくなる気がした。けれど、僕が目覚めた時、三上さんは隣で寝息を静かにたて眠っていた。

 三上さんはそれから眠り続けた。昼くらいにおかしいと思い、声をかけた。何の反応もない。身体を揺すってみた。けれど寝息をたて続けている。もしやと思い、心臓の音を確かめてみた。安心した。トクトクと心音が体の中で響いている。けれどまったく目覚めない。確か眠っている間、三半規管を刺激すると、覚醒すると聞いたことがあった。試してみたけれど、まったく反応がなかった。三上さんは静かに、寝息をたて眠っている。身体はここにあり、触れる事ができる。けれど三上さんが遠くへ行ってしまったんだと感じた。僕は血の気が引いた。それは、亡くなった彼女に対して感じる感覚と同じだったからだ。

 それから三上さんは、病院へと入院した。原因は不明。脳に異常なく、副交換神経が優位に働いていており、外的刺激に対する反応が低下し、意識も失われている状態であるという事だ。なんのことはない、ただの睡眠だ。


 僕は毎日のように面会に行った。けれど特に変化はなく三上さんはずっと眠り続けていた。

 2週間後の事だった。三上さんは病院から急にいなくなった。看護師の隙をついていなくなった。

 旅行鞄をまとめておいたけれど、そこに入っていた服を着て、スマホは置きっぱなしだった。それから三上さんと会っていない。今どこで何をしているのか、記憶は戻ったのか、僕の事は覚えているのか、わからなくなった。三上さんは不可視化した。

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