第7話

 始業前、授業の準備のため資料室に向かう途中、廊下で立木の後ろ姿を目にした。彼女は一人で教室へと入っていった。まるで空気の抜けたタイヤのような重い足取りだった。

 僕は廊下から立木を見た。自席でイヤホンを耳に挿し、まるで人と時間を押しやっているようだった。いつもの部活で見せる立木の顔ではなかった。


 職員室に戻り、立木のクラスの担任が安田先生だった事を思い出し、向かいの安田先生に話しかけた。

「安田先生」

 安田先生は身構えた。

「もうゴリラの話はしませんよ・・・。生徒の箏です。立木ミオリの事です」

「立木さん・・・」 

 何か思い当たる様子だった。

「演劇部の部員なんですよ。気のせいだといいんですが、最近何か問題を抱えていませんかね?」

「だと思います」

「それは、イジメでしょうか?」

 安田先生は黙った。

「失礼、友達と喧嘩中でしょうかね?」と僕は言い直した。

「だと思います。多分恋愛の箏です。彼女達は若いです。私たちと違って、人間関係の新陳代謝はおそろしく早いです。すぐに落ち着くと思います」

「特に気にする必要もないですか・・・」

「現に、部活動は参加しているのでは?」

「ええ、部活では他の部員と問題なくコミュニケーションを取っています」

「なら、大丈夫なんじゃないでしょうか」安田先生は言ったが、言葉と表情との解離を感じた。

   

 部活内での立木は至って普通だった。いつものように合間を見つけ、僕をからかいに来る。けれど立木の普通とは一体どういう状態なのか僕は知らなかった。

「愛するあなたに会いたい、胸が張り裂けそう、あなたの笑顔を守りたい、翼を広げて、夢を追いかけよう。なんていう歌詞、先生どう思う?」

「どうだろうな。平易だと思うけど、その歌詞によって救われる人間もいるんじゃないか?」

「先生はどう思うか聞いているんだけど?」

「そうだな。歌詞は共感を目的としてあると思う。その公約数を大きくするとなると、ある程度平易なものになるのは仕方がないとも思う。けれど俺が共感できるかと言われれば少し綺麗すぎて共感できない」

「そうそう、そうなの。人間はそんなに綺麗な事を考えている訳じゃないのよ。本当はみんな夜中にカップラーメンが食べたい。エッチな箏をしたい。嫌いな人だっている。それをまどろっこしく、未来の翼を広げるんだよ。本当は夜中にこってりラーメンをすすりたいだけなんだよ」

「そんな事はないと思うが、俺みたいな胃が弱い中年だっている訳だし。それで何でそんな事を聞くんだ?」

「落語の事を考えていたの」

「成る程、意味がわからん」

「落語は煩悩の肯定だよ?」

「だから?」

「つまり、実際に落語を見に行きたいって事。みんなで話していたの」

「はあ・・・」

「日曜に市民会館で大学の落研の落語があるから、10時に市民会館に集合ね」

「俺に言ってる?」

「顧問だしね」

 立木は朝の顔はどこに忘れてきたのか、朗らかに言った。


 日曜、9時半に市民会館に着いた。エントランスに向かうと、隅で立木が手鏡で前髪をチェックしていた。格好は細身のデニムにベージュのカットソーを着ており、化粧のせいかとても大人びて見えた。

「先生」と立木はすぐに僕に気づき、手を振った。

 僕はまわりを見ながら、立木に「みんなは?」と聞いた。

「みんな?」と立木は首を傾げた。

「他の部員」

「いないよ」

「うん?」僕は首を傾げた。

「うん?」立木も僕と同じように首を傾げた。

「他の子達が来るなんて私言った?」

 僕は自分の記憶を確認をした。

「・・・言ってないな」

「だよね?」

「ああ」

「じゃあ、席に行こうか」

「ちょっと、ちょっと、それはまずいな」

 僕は焦った。

「まずくないよ。ただの課外学習なんだから。どうしたの?意識しているの?先生が意識しているならまずいよ。でも実際は劇のため落語を見て、それで解散する。問題ないでしょ?」

「うーん」

「行こう、行こう。私落語見るなんて初めてで、楽しみにしてたんだから」

 大学の落研による落語会は、成人式なども行われるホールで行われ、1時間の予定だった。客は大学の関係者や年配の方が殆どで、30人くらいだった。僕らは後ろの方に並んで座った。

 落語が始まると、立木は表情豊かに楽しんだ。

 4人のアマチュア落語家が順番で一人ひとつ演目を行った。御神酒徳利、お血脈、時そば、そして最後の演目が芝浜だった。 

「ねえ、芝浜の言いたい事って夫婦愛かな」と全ての演目が終わり立木は言った。

「女は嘘つきって箏じゃないか?」

「はは、言えてる」

「それは冗談として、俺が思うのは夢と過去の記憶に明確な違いがないって箏だな」

「そういえば、先生前にも同じような事言ってたね」

「ああ、どちらもイメージでしかないからね」

 立木は僕の手を握った。

「じゃあ、こうしている時も、どんどんと過去になっていく。手を離してしまったら、私と先生が手を繋いでいた事実なんてなくなるね」

「けれど、今は写真やSNSなんていう便利なものがあるけどな」

「千年経てば、すべて消えてしまうよ。ねえ先生は消えてしまう事が怖いの?それとも世間が怖いの?」

「後者だよ。君は素敵だと思う。俺なんかを好きになっちゃいけない」

「先生も素敵だよ」

「俺なんて何もない空っぽの人間だ。人生に立ち向かう事すら忘れて、年を取ることに怯えながら過去にしがみついているどうしようもない人間だ」

「それでも生きているじゃない。それだけで何が悪いの?それ以上何があるっていうの?お金?名誉?地位?先生はそんなもの価値がないって言ってたじゃない。先生の言葉、私は心にしっかりとしまっているよ。いつか絶対自分に必要になる時が来るって思ってしまっているのよ」

 自分の言葉、彼女の言葉、それらで僕らは何らかの関係を築いている。僕にとって彼女の存在は日に日に大きくなっている。決して成長をやめない植物の成長のように、ゆっくりと、確実に大きくなっている。彼女の中の俺もそうなのだろう。恋とも言えない、友情ともいえない。教師と生徒なんてもっと言えない、そんな関係。決して行き着くことは許されない関係。けれど彼女は平気で乗り越えていく。僕は決して乗り越えてはいけない。

「今だけこうさせて欲しい」

 立木はそっと身体を僕に寄せ、身を委ねた。言葉を使わない意思の疎通、彼女の香りが鼻孔を擽る。数秒後、彼女はゆっくりと身体を離し、鞄を持ってその場をあとにした。一言も言わず。

 僕は彼女との関係をまた一歩進めてしまった。


 アパートに戻り僕はいつものように、タバコを一本吸って、椅子に座った。けれど、三上さんの箏を考える箏が難しくなっている事に気付いた。

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