第142話 顔が見えないからこその利点もある

 玲奈れいなを家まで送った瑞斗みずとは、別れ際に「足を舐める代わりよ」と手の甲を差し出されて渋々そこへキスをする。

 どうやらこれでも目上の気分を味わえたようで、「ふふ、苦しゅうない」とご機嫌な彼女に見送られながら帰路に着いた。

 結局、今日の釣りで彼が捕った魚は一匹だけ。運が悪かっただけだと思いたいが、やはり天性の才能の存在も少なからず影響しているだろう。

 玲奈曰く、「瑞斗君は恋をした方がいいわ、駆け引きを学ぶのに一番いいんだから」とのこと。

 少なくとも彼女がいる間は、偽恋人関係に影響しても困るのでするつもりは無いが。


「ただいまー」

「お兄ちゃん、おかえり! 魚たくさん釣れた?」

「……釣れたよ」

「嘘がわかり易すぎるよ!」


 妹に釣りの才能があるかもしれないし、ここは嘘をついて楽しいものだと思わせておこう。

 そんな兄心はあっさりと見破られ、「お兄ちゃんだもんね、仕方ない仕方ない」と受け入れていいのか分からない慰め方をされてしまった。

 普段から威厳のないお兄ちゃんだからだろうか。まあ、尊敬される存在になりたいなんて気持ちは、とうの昔に置いてきてしまったけれど。


早苗さなえは釣り上手にならないでね」

「どうして?」

「男を釣るのも上手くなるらしいから」

「大丈夫! 早苗、元々モテモテだもん」

「……自信があるのはいいことだ」


 胸を張って見せる可愛らしい姿にウンウンと頷きつつ、ポケットの中で震え始めたスマホの画面を見て階段の方へ体を向けた。

 早苗に「ご飯はもう少し後でいいって伝えておいて」も言ってから、小走りで自室へと入ってスマホを耳に当てる。

 電話の相手はもちろん花楓かえでだ。今日は補習合宿二日目、明日はようやく開放される日。

 彼女の成績を考えればもう少し長くいてもいいとは思うが、スピーカー越しに聞こえてきた声を聞いてそうもいかないかと思い直した。


『みーくん? みーくんだ……みーくんだ……』

「ちょっと、どうしたの?」

『花楓ね、勉強ばっかりでおかしくなりそうなの。みーくん成分が足りてないし』

「何その有害そうな物質」

『私にとっては無いと生きていけないんですぅ』


 そんな台詞をサラッと恥ずかしげもなく言えてしまう辺り、本当に限界が近いのだろう。

 かと言って電話越しでは頭を撫でたり、ハグしてあげたりなんてことが出来る訳でもない。ここは彼女自身に頑張ってもらうしかないだろう。

 そう思いながら聞こえてくるため息がちょっとくすぐったいななんて考えていると、花楓が突然ふと思いついたような声を上げた。


『みーくん、普段は恥ずかしがってしてくれないけど、今なら思い切ったことも出来ちゃうよね?』

「恥ずかしいからじゃなくて、彼女が居るから下手なことしないだけなんだけど」

『今は鈴木すずきさんも居ないでしょ?』

「まあ……」

『え、居るの? まさかお泊まり?!』

「居ない居ない。さっきまで一緒にお出かけしてただけだよ」

『ずるい! 帰ったら花楓ともしてよね』

「はいはい、無事に戻ってきてくれたらね」


 その言葉で少しご機嫌になった花楓は、『デートデート♪』なんて口ずさみながら鼻歌を歌い始める。

 これだけ元気なら明日も乗り切れるだろう。そう思って電話を切ろうとすると、慌てて呼び止めた彼女が不満げに『まだして欲しいことあるの!』と言ってきた。

 嫌な予感しかしないから逃げるつもりだったのだが、こう言われて切断するのも気が引ける。

 本当に無理そうなことだったら断ろう。彼はそう心に決めてから、内容を聞いてみることにした。


『あのね、して欲しいことっていうのがね……』

「うんうん」

『花楓、みーくんのこと好きでしょ?』

「そうなんだろうね」

『……嘘でもいいから、好きって言って欲しいな』


 今にも消えかかりそうなほど弱々しく、何とかマイクが拾い上げてくれた声が、耳を通って矢のように瑞斗の胸へグサリと突き刺さる。

 自分のことを想ってくれている相手に『嘘でもいいから』なんて言われたら、嫌なことでも拒める気がしなかった。だから。


「……好きだよ」


 ボソッと呟いた言葉に、スピーカーから帰ってきたのは嬉しそうな甲高い声。

 別に嘘をついたわけじゃない。幼馴染として、友達として、家族同然の存在として。花楓は間違いなく好きな人だから。

 それでも、恋愛的な意味では無いと言うだけで、彼女の『ありがとう』には殴りつけられるような罪悪感があった。


「頑張ってね、帰ってくるの楽しみにしてるから」

『うん! みーくん大好きだよ!』


 『あ、先生来――――――』という言葉で切れる通話。耳元で鳴り続けるプープーという音の中で、瑞斗が色々なことを考えながらしばらく動けずにいたことは言うまでもない。

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