第141話 『あなた』はお金で買えないから

 あれから30分、瑞斗みずとの釣竿は一切揺れること無く時間だけが過ぎていた。

 一方、玲奈れいなの釣り針にはよく魚がかかり、追加でレンタルしてきた大きなバケツの中には、入れた海水の中でグルグルと泳いでいる魚が6匹。

 どれもそこまで大きくはないが、通りすがりのおじちゃんによれば初心者にしては筋があるらしい。


「あらあら、これは釣れた魚の数でも私の勝ちね」

「そんな勝負してたっけ」

「今決めたの。負けたら足でも舐めてもらおうかしら」

「太ももだったらいくらでも―――――――――」

「……」

「冗談だよ。あー、負けられないなー」

「……まあ、いいわ。私の勝ちは約束されたようなものなんだもの」


 玲奈の言う通り、今からどう頑張っても魚がかかり続ける彼女を追い越すには二分に一匹は釣らないと間に合わない。

 魚がそう気前よく身を差し出してくれるはずも無いため、彼女の足でもなんでも舐める心の準備をしておくのが賢い選択だろう。

 プライドのプの字も縁がない瑞斗でも、さすがに見下ろされながら一般的に汚いものとされるものに舌をつけるのは何かが壊れそうな気がするから。


「あら、またかかったわ」

「魚もどうせなら顔がいい人に釣られたいんだろうね。チャラ男と一緒だ」

「そうだとしたら、残念だけど私には瑞斗君がいるからお断りよ」

「釣り糸を垂らしておいてよく言うね」

「男に関しては、身に覚えがないのだけれど」


 会話しながらでも手先の感覚に向けた意識を逸らすことは無く、器用に魚との読み合いを制して釣り上げる。

 飛び上がってきたソレを瑞斗がキャッチすると、そっと地面において軽く押えながら糸を外そうとした。

 いくら釣り上げた魚とは言え、取りにくいからと引きちぎるような真似は出来ない。

 魚に痛覚があるのかはよく知らないものの、そこは人間の持っている理性や倫理観の話だった。

 きっといくら丁寧にやっても、捕まえられた側からすれば恐怖の瞬間でしかないことに変わりは無いのだろうが。

 そんなことを考えながら針を取ろうとした時、ふと背後で何かが動く気配を察知して振り返る。

 すると、どうせかからないだろうと手放していた釣竿が徐々に海の方へと引っ張られていた。


「あ、ちょっと……」


 慌てて掴もうとした瞬間、釣竿は何かに引き寄せられたかのように海の方へ飛び出していく。

 瑞斗もそれを追いかけて飛び込むような勢いで手を伸ばし、体の重心が地面からはみ出るような体勢でギリギリキャッチ出来た。

 見下ろせば、防波堤に打ち付ける波が見える。少し海が荒れてきたらしい、潮時と言うやつだろう。

 そんな彼の背中には、抱きつくようにして支えてくれた玲奈がいる。彼女なしでは、今頃海の中に真っ逆さまだっただろう。

 自分でも分かっていたが、安全なところまで引き戻してくれた玲奈の表情は、普段なら直視出来ないほど怒りで真っ赤になっていた。


「あなた、馬鹿じゃないの?!」

「落としたら弁償しないといけないし、勝負のこともあったからつい……」

「本当にどうしようもない馬鹿ね。釣竿なんかより、あなたの命の方が大事に決まってるでしょ!」


 睨みつける視線が痛いし、彼女にも危険なことをさせてしまったことは申し訳ない。

 ただ、本気で心配して叱ってくれているのだと実感する度、怒られているはずなのに不思議と笑みが零れてしまう。

 たとえ偽恋人計画のためだったとしても、必要とされているという事実が嬉しかったのだ。


「何よ、怒ってるのにニヤニヤして」

「ううん。鈴木すずきさんの足なら、舐めるのも我慢出来るかもって思っただけ」

「まさか本気にしたの? 冗談よ、命令はマッサージしろとかその程度のことだから」

「初めからそう言ってくれてたら、危ないことしなかったかもしれないのになぁ」

「はいはい、私も悪かったわよ。謝るから二度としないで、あなたが居ないと人生が少しつまらなくなるわ」

「それが罰なら、喜んで受けるよ」

「……まったく、小賢しいわね」


 その後、釣った魚の中で食べられる種類だけは釣り場近くの店で調理してもらい、他は全てリリースして帰った。

 釣りたて調理専門のお店なだけあって、フライにしてもらったものは絶品。

 今度は花楓かえでにも食べさせてあげようと約束して帰路につき、お互いにうたた寝してバスを降り過ごしてしまう二人なのであった。

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