第109話 雨降って地固まる

 あれから、玲奈れいなが出て行ってすぐに寝落ちてしまったから、きっと何時間も眠っていたのだろう。

 窓から差し込む光は温かなオレンジ色になっていて、枕には握り締められたような跡が残っている。

 ベッドから降りてみれば、腰の痛みはもうほとんど無くなっていた。

 どうやら保健室の先生は用事で出ているらしい。書き置きとその横にあった鍵を手に取ると、瑞斗みずとはカバンを肩にかけて廊下に出る。

 ドアにはしっかりと鍵をかけ、ぐるりと職員室の方へ回って指定の位置に戻してから帰路に着いた。


「……明日、謝ろう」


 起きてからずっと、彼は足首を何者かに掴まれているような後悔を感じている。

 それを引きずっては進んで、引きずっては進んでを繰り返していて、いつまで経っても前に進んだ気にならない。

 玲奈にあんなことを言ってしまったのだから当然だ。彼女は体育祭と真剣に向き合っているだけで、何も悪いことなんてしていないと言うのに。

 悪いのは出来ないことから目を背けようとしている、臆病なだけの自分の方だと分かっているはずなのに。


「あっ」


 重い足が道端の小石に引っかかってつまずいた。その拍子にちらりと視線が向いた校庭に、一人の女子生徒が残っていることに気が付く。

 こちらの存在に気が付く様子もなく、ただひたすらに前に向かって走り続ける玲奈の姿だ。

 そんな彼女がちょうど何周目かを走り終えたらしい。ポケットから取り出したストップウォッチのタイマーを止め、悔しそうに後ろ頭を掻いたのを見て瑞斗は動いていた。

 まだ僅かに残る腰の痛みも、起きたばかりでふらつく足取りも忘れて、一直線に最寄りの自動販売機へと駆けつけたのだ。そして。


「こんな時間までやってたんだね」

「……ええ」


 ちょうど水筒の中身を飲み干してしまった玲奈に、冷たいスポーツドリンクを差し出す。

 彼女は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに「ありがとう」と受け取ってゴクゴクの飲んでくれた。

 普段は下ろしている髪を後ろでひとつにまとめているから、首筋を伝って体操服に染み込む汗がキラリと光って見える。

 そう言えば昨日もこの髪型にしていた気がする。つい無意識に「似合ってる」と呟くと、「今更?」と若干呆れられてしまった。


「余裕がなくて気付かなかったなんて言い訳はしない。今までの僕は、鈴木すずきさんをよく見てなかったんだと思う」

「何よ、らしくないわね」

「僕は情けないと思われる人生を歩んでるかもしれないけど、偽物でも彼女を見捨てるような情けなさは持ちなくないんだ」

「変な夢でも見たのかしら、随分な変わり様だけど」

「努力してる姿に感化されたのかも」

「……ふふ、悪くない答えね」


 にんまりと笑う彼女に釣られて、瑞斗も表情が緩んだ。酷いことを言ってしまった事実は変わらないが、少なくとも本当の玲奈を知ったと伝えることは出来ただろう。


「腰も良くなってきたし、明日は一緒に特訓したい」

「嫌なんじゃなかったの?」

「僕も努力してみたくなったんだ。上手く出来るかは分からないけど」


 正直、嫌だと言われても仕方なかったと思う。上を目指す彼女にとって、出来ない自分は足手まといでしかないから。

 けれど、玲奈は嬉しそうに笑うと、「仕方ないから付き合ってあげる」と言ってくれた。


「ちょうど一人だと退屈だと思ってたところなの。そっちから頼んだんだから、私のペースに合わせてもらうわよ」

「その、少しは手加減して欲しいかなぁ」

「ふふふ、それはあなたの態度次第ね」


 そう言って意地悪な顔をしながらも、結局はお互いのためになることをしてくれるのだろう。

 瑞斗が改めて彼女の優しさをそう認識したことは、彼だけの秘密である。

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