第57話 お粥は辛き日の思い出の味

 怒った勢いで壁の方を向いてしまってからしばらく経った頃、玲奈れいなは背後で色々としてくれていたらしい瑞斗みずとの「寝ちゃった?」という問い掛けにも反応を示さなかった。

 本当はそろそろ許してあげたかった……というよりかは、元から怒ってなんて居ないが、これだけ無視しておいて今更振り向くのは、彼女の性格上難しかったのである。

 ただ、彼はそれすらも分かっているかのように微笑むと、「頼らなくていいくらいには回復したみたいだね」と呟いて部屋を出て行った。

 来てもらっておいて無愛想な自分に愛想を尽かして帰ってしまったのかとも思ったが、起き上がってみれば制定カバンは置いたまま。

 少し前にも十数秒だけ部屋を出ていた時間があったが、その時はリビングに放置されていた洗濯物をここへ持ってきていたのだろう。

 丁寧に畳まれたタオルや服が机の上に積まれてあるのが見えた。一緒にあったはずの下着類に関しては見えないため、手は触れなかったらしい。

 その後はベッドの傍に腰を下ろして、布団の上からトントンとしながら子守唄を歌ってくれていた。

 お世辞にも感情の込められていないそれを上手いとは言えないものの、不思議と安心してうとうとし始めていたところなのだ。なのに。


「……寝れないわ」


 初めはこの程度の熱なら一人で乗り越えられると思っていたにも関わらず、今は彼が部屋に居ないだけで少し心細い。

 彼の足音や何かに触れて鳴る生活音が、どれだけ病人である自分へ『近くにいてくれている安心感』を与えてくれていたのかを思い知った。


「……」


 視界に入ったスマホへと反射的に手が伸びる。瑞斗は今もスマホを持ち歩いているはず、電話をすれば戻ってきてくれるかもしれない。

 そう考えた玲奈は彼とのトーク画面を開いたところで、いやいやと首を横に振りながら画面を切った。

 熱に浮かされてぼーっとしているとは言え、いくらなんでも甘えすぎだと思ってしまったから。

 瑞斗は他人でしかない自分のためにここまでしてくれているのだ。そろそろ休憩をさせてあげるべき……いいや、帰ってもらうべきだろう。

 明日だって学校がある。自分は熱を理由に休めたとしても、彼の場合はそうはいかない。

 何より、寝ることが好きだと言っている相手に起きさせていることへの罪悪感が徐々に積もり始めていた。優しさに甘えるのにも限度がある。


「もう平気、帰っていいわよ。よし、これならきっと言えるわ」


 なるべく元気そうな顔と明るい声で。いつも通りの自分を意識しながら、何度も繰り返して言葉を口に馴染ませた。

 けれど、数分後に戻ってきた彼がお盆に乗せたお茶碗を持っているのを見た瞬間、喉の上の方にまで用意しておいたはずの言葉が飛んで行ってしまう。

 代わりに出てきたのは、今一番見せたくなかったもの。ホッとした拍子に緩んでしまった表情だ。


「あ、起きてて大丈夫? って、どうしてニヤニヤしてるの?」

「……何でもない」

「そう? お粥作ったんだけど食べれるかな」

「……食べる」

「良かった、食欲はあるんだね」


 心からそう思っていそうな瑞斗は、ベッドの近くまでやってくると、玲奈の膝の上にお盆を置いて「どうぞ」とレンゲを渡してくれる。

 しかし、しばらく食べようとしない彼女に、「お腹痛い?」と聞いたりして、首を横に振られると何かを納得したように頷いてお盆ごと受け取った。


「熱がある時に熱々のものを持ってくるのは気が利かなかったよね」

「いえ、そういう意味じゃ……」


 慌てて否定しようとしていると、彼は小さめの一口分をすくったレンゲに、ふーふーと息をふきかけ始める。

 それを何度か繰り返した後、「これで大丈夫」と彼女の口元へと運んだ。

 その混ざりっけのない瞳を見た瞬間、昔姉に看病してもらった時のことを思い出してしまって、ついつい素直に口を開いて受け取ってしまう。

 これ以上甘えてはいけないと思っていたはずだというのに、まだまだ甘えたりないと感じてしまう心が満たされる味がした。


「……しょっぱいわね」

「あれ、おかしいな。塩は入れてないんだけど」

「しょっぱいと言ったらしょっぱいのよ」


 そう言いながら、遅れて緩み始めた涙腺を隠すように顔を背ける玲奈。

 そんな彼女が「じゃあ作り直してくるね」と立ち去ろうとする彼の手首を掴んで引き止め、食べ終わるまでずっと離そうとしなかったことはまた別のお話。

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