第24話 喧嘩ムードと一輪の花
ミヅキと意見を衝突させることが増えた。
きっかけは些細なことで、なぜ喧嘩したのか、二、三日すると自分でもバカらしくなる。
理由は分かっている。
サダオもミヅキも最近は仕事のストレスが溜まっているのだ。
加えてカレンが四月から塾に通うことになり、毎月の出費が跳ね上がったことも口論を助長していた。
「おい、何だよ。低脂肪牛乳じゃないか」
風呂上がり、一口飲んでから違和感に気づいたサダオは、ミヅキに向かって棘のある言い方をしてしまった。
サダオは低脂肪牛乳が好きじゃない。
水っぽくて味が薄いし、コクがまるでない。
わざわざ低脂肪牛乳を飲むくらいなら、普通の牛乳を買ってきて、水道水で割った方がマシじゃないかと思っている。
値段だって二十円や三十円しか変わらない。
家計の足しになるとは思えないし、普通の牛乳が飲みたかった。
「低脂肪牛乳、いいじゃない。普通においしいし」
「俺は苦手なんだよ。まさか家計がそんなに厳しいのか?」
「そういうわけじゃないけれども、将来何があるか分からないから。余裕のある内に節約しなきゃ」
「だけどなぁ……」
節約、節約、節約……。
節約が大切なのは分かる。
でも楽しみつつ節約することが肝心じゃないだろうか。
小銭をケチった結果、ストレスが溜まったのでは本末転倒というやつだ。
節約の目的がないのも気に入らなかった。
家族旅行のための節約とかなら、サダオのモチベーションだって上がる。
この日、サダオは一番やってはいけない暴挙に及んだ。
コンビニへ行って五百ミリリットルの牛乳を買ってきたのである。
翌朝、サダオの牛乳パックを見つけたミヅキが怒ったのは言うまでもない。
「ちょっと、これ、コンビニのシールが貼ってあるじゃない」
「別にいいじゃねえか。俺が自分の金で買ったんだから。牛乳がない生活なんて考えられない」
「はぁ……」
これが四十近い夫婦の喧嘩である。
朝食のパンを食べるカレンだってキョトン顔になっている。
ミヅキの主張が分からんでもない。
牛乳というのは冷蔵庫の象徴みたいなやつ。
目立つところから着手することで『我が家は財政緊縮モードに入ったのです』と主張したいのだろう。
しかし、サダオにも反論させてほしい。
牛乳を半分以上消費しているのはサダオであり、サダオに一言相談があって
「低脂肪牛乳、俺は苦手なんだよ」
「でも、少しは協力してくれてもいいでしょう」
「嫌なもんは嫌なんだ」
ミヅキの節約攻撃はこれで終わらなかった。
まずトイレットペーパーの質が落ちた。
肌触りがゴワゴワして明らかに吸水性が悪くなった。
続いてティッシュペーパーも劣化した。
光にかざした時の透け具合が前とは違う。
おいおい、勘弁してくれよ。
カレンの塾代を考えたら、百円や二百円の節約なんて焼け石に水じゃないか。
サダオは自分が嫌がらせされている気分になった。
我が家の居心地が一気に悪くなった。
どうしてミヅキはサダオに相談しない。
信頼されていないというのか。
カレンが不在のタイミングを狙って、トイレットペーパーやティッシュペーパーのことで文句を言うと、
「すぐに慣れるわよ。それでも嫌なら元のメーカーに戻しましょう」
と簡単に言ってくれる。
サダオはカレンを呼んだ。
ここは娘を味方に付けないと勝てない気がした。
「カレンはどうなんだ? 前のティッシュと今のティッシュ、どっちが好きなんだ?」
「前のやつがいい」
「だよな」
値段が高いから品質も上なのは当たり前である。
「あなた、卑怯じゃない。カレンを盾に使うなんて」
「そうじゃない。話し合いして決めようと言いたい。民主主義の原則だ」
「はぁ? 何それ?」
ミヅキが読みかけの本を乱暴に置いた。
「家のことなんて今まで滅多に口にしてこなかったくせに。不満がある時だけ文句言うわけ? お客さんにでもなったつもり?」
カレンがびっくりして顔を背ける。
「ごめんなさい、お母さん」
「カレンに言ったんじゃない。お父さんに言っているの」
またやってしまった。
他にも手段はあったのに。
もっと言葉を選ぶとか、ミヅキが疲れていない日に言うとか。
相手がどう受け取るかという、サラリーマンなら想像できて当たり前のことに、サダオは失敗した。
「もういい。この話は」
サダオは逃げるように作業部屋へ向かった。
机に座ってため息をつき、髪の毛をかきむしった。
……。
…………。
大人になると『ごめんなさい』を言うのが難しい。
金属がゆっくり錆びるみたいに、ミヅキとの関係も悪くなっていった。
出会った当初はもっと仲が良かった。
結婚した時、この人は一番の理解者だと思った。
サダオはどうだろう。
ミヅキにとって、一番の理解者でいられるだろうか。
そもそも急に節約、節約と言い出した理由が分からない。
サダオの収入は安定しているし、子供だってカレン一人なのだ。
その日の帰り道、久しぶりに花屋へ寄ってみた。
特にこだわりはないので真っ赤のバラを一輪買ってみた。
四百円ちょっとする。
花も高くなったものだ。
これを渡したらミヅキは怒るだろうか。
余計なものにお金を使ってと。
そうなったら花はカレンにあげよう。
無条件で喜んでくれるはずだから。
賭けにも似たプレゼント作戦は、結果からいうと成功した。
「あら、かわいい。花なんて珍しいじゃない」
ミヅキの機嫌が一発で良くなった。
「文句は言うなよ。俺が自分のお金で買ったんだから」
「文句を言うわけないでしょう」
カレンも含めた三人で夕食を食べた。
テーブルの隅には真っ赤なバラが咲いており、リビングの空気が一気に明るくなった。
カレンが恐る恐るといった感じでバラに触れる。
棘を指でツンツンして、楽しそうに笑った。
「最近、不安なことでもあるのか?」
「そういうわけじゃないけれども……」
「言ってみろよ。家族じゃないか」
ミヅキは一度カレンを見て、サダオに視線を戻した。
「なんだ? ミヅキのお父さん、体調を崩したのか?」
「そうなのよ。不摂生が祟っちゃったのかしら」
ミヅキの父がしばらく仕事を休んでいるらしい。
まだ寝たきりになるような歳じゃないから、回復したら職場復帰できるが、鉄人のようにバリバリ働いてきた人なので、家族は心配しているのだ。
「本人は嫌がるけれども、家族が病院へ連れていったんだってさ。そうしたら悪いところがたくさん見つかって」
「しばらく薬を飲んで休みなさい、てことか?」
「そうなのよ」
サダオと違ってミヅキは親と離れて暮らしている。
不安になることも多いだろう。
親が老境になるにつれて、体の不具合も見つかるわけで、ミヅキとしてもプレッシャーが掛かる。
ミヅキを寂しい気持ちにさせてしまった。
サダオとしても反省点はある。
「お父さんの治療費、けっこう必要なのか?」
「まだ分からない。でも、死ぬまで通院は避けられないと思う。持ち家だって、固定資産税がかかるから、もう売りに出してアパートに移ろうかって話が出ているから」
「分かったよ」
サダオはお茶を一口飲んだ。
「ミヅキが親に仕送りしたかったら、仕送りすればいい。ミヅキが働いて稼いだお金だから、俺だって文句は言わないよ。でも、俺たちの家に関する話は別だ。ちゃんとカレンを含めた三人で相談しよう。カレンの今後のためにも、お金の話は聞いてもらった方が良いと思う。どうだろうか?」
「うん、ありがとう」
ミヅキは涙で湿った目をこすった。
「じゃあ、まずは牛乳だな。やっぱり低脂肪牛乳じゃなくて、普通の牛乳がいい。その代わり俺はコンビニとかで缶コーヒー買う回数を減らすよ。それなら釣り合いが取れるだろう」
「そうね」
「お父さん、毎月何本缶コーヒー飲むの?」
「そうだな……」
計算した結果を伝えると、二人はびっくりした。
「もったいない!」
「ムダ遣い!」
「だって仕方ないだろう。新入社員の時からずっと続けてきた習慣なんだから。次はミヅキだ。何かあるだろう、削れそうなところ」
「そうだな……」
家族の間に広がりそうだった
……。
…………。
食後、サダオは満足した気持ちで作業部屋へ向かった。
タブレット端末を取り出し、久しぶりに電源を入れてみる。
メールボックスを確認してみるが『タイム・リープ』なんて項目はない。
これでいい。
殺人鬼フィクサーなんて二度と登場しなくていい。
絶対に捕まえてやる! と躍起になっていた時期もあるが、だからといってサダオに得があるわけじゃなく、この先二度と出会わないのが理想といえる。
リビングの方からミヅキとカレンの笑い声が響いてくる。
やっぱり女同士じゃないと理解できないこともあり、母娘の仲が少し羨ましかったりする。
「これでいい」
独り言を呟いたサダオは、引き出しの最下段を開けようとした。
しかし中の物が引っかかっているのか、一センチしか開いてくれない。
「おい、こら、開いてくれよ」
ガチャガチャしてみるが無理だった。
引き出しがこうなったら、上の段を全部外して、詰まりを解消しないといけないが……。
まあいっか、と思いこの日は諦めておいた。
そもそも最後に下の段を開けたのは遠い昔で、中に何を入れたのか忘れてしまった。
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