第22話 皮肉なことにも……

 ツキに見放される、という言葉がある。

 蝋燭の火がやがて消えるように、殺人鬼フィクサーの悪運は尽きようとしている。


 サダオは台所に飛び込んだ。

 殺人鬼フィクサーがそっちに逃げたからだ。


 勝手口を開けようとした体を後ろから羽交締めにして、リビングのテーブルに叩きつける。

 コップが何個か砕け散り、新聞や雑誌が散乱した。


 殺人鬼フィクサーの蹴りがサダオの腹部にめり込む。

 後ろからワイヤーで引っ張られるみたいに、サダオの体は背中から冷蔵庫に叩きつけられた。

 衝撃でマグネットが飛び散る。


「くそっ……」


 この時に感じたのは、痛いでも苦しいでもなく、楽しいだった。

 次はどうやって攻撃しようか考えると心がワクワクした。


 脳内物質が出過ぎたせいで、頭が変になっていたのだろう。

 思いっきり人をぶん殴れるという興奮に酔っていたのかもしれない。


 サダオの視界にフライパンが映った。

 上から頭に叩きつけたら痛そうだな。

 そのシーンを想像して口の端がニヤリと釣り上がる。


 サダオはフライパンを振りかぶった。

 しかし振り下ろそうとした腕は手袋にキャッチされてしまう。

 ガラ空きのボディにもう一個の拳が突き刺さる。


 これは効いた。

 サダオは再び冷蔵庫にぶつかった。


 格闘ゲームの世界で強すぎるCPU相手に戦っている気分だ。

 こっちの繰り出す技に対して高確率で対処されてしまう。

 少しのミスで反撃のチャンスを与えてしまう。


「死んでも負けねぇぞ」


 サダオは奥歯に力を込める。

 勝手口から出ていく殺人鬼フィクサーに追いすがる。


 家庭菜園のところで警察官の一名と殺人鬼フィクサーが鉢合わせした。


「おい! お前! 止まれ!」


 と聞こえた次の瞬間、殺人鬼フィクサーの顔面パンチが炸裂して、


「ぐわぁ⁉︎」


 という悲鳴に変わった。


「おい! 大丈夫か⁉︎」


 もう一名の警察官も駆けつける。

 この間に殺人鬼フィクサーは庭のブロック塀をよじ登っており、隣の民家に逃げつつあった。


 サダオもブロック塀を乗り越える。

 一名の警察官も同じタイミングで着地を決める。

 もう一名は自転車で先回りするらしい。


「そこのお前! 止まれ!」


 民家を抜け、小道に入っていった殺人鬼フィクサーは、そのまま工場の敷地に突っ込んだ。

 脇目も振らずに反対側へ突き抜けると、赤信号を無視してぐんぐんペースを上げていく。


 サダオと警察官は必死に食い下がった。

 見失ってしまわないよう、五メートルくらいの距離をキープした。


 向こうだって生身の人間だ。

 そろそろ息が切れるに決まっている。


 加えてサダオは下半身を鍛えまくった。

 強化された肉体なら追い付けるはずだった。


 マントのようになびくロングコートが右へ左へと曲がっていく。

 警察官が手を伸ばし、何とかつかもうとするが、指先からするりと逃げる。


 前方から自転車の灯りが迫ってきた。


 挟み撃ちだ。

 先回りした警察官とサダオたちが殺人鬼フィクサーを囲みかける。


 さすがに万事休すか、と思いきや、ロングコートはさっと角を曲がった。

 お見合いしそうになった警察官が、例の袋小路をのぞき込み、何も見つからないので首を傾げた。


「おい、どこいった?」

「見当たりませんね」

「でも、確かにこっちへ向かったぞ」

「この先は行き止まりで、左右はマンションですよ」


 警察側の懐中電灯が地面を照らす。

 マンホールの穴らしきものはない。


「地下も無理か」

「消えましたね」

「バカ、人が消えてたまるか」


 おかしなやり取りを空虚な思いで見つめた。


 ……。

 …………。


 立て続けの事件で分かったことがある。

 日本の警察というやつは、人が殺されでもしない限り、大々的には動けないらしい。


『付近のパトロールを強化してみます』


 何回も聞いたようなセリフを告げられた。


 ラブラドールは小川のガードレールにつながれていた。

 腹が立つあまり、殺人鬼フィクサーが残していった犬用マズルを川面に投げつけてしまう。


 今回も逃がした。

 まんまと逃げられた。


 警察官の応援があるから大丈夫だろうと信じていたが、甘かったらしい。


 殺人鬼フィクサーは警察官の登場に動揺していなかった。

 あの瞬間、勝負は決まったと言える。


 やっぱり信じられるのは自分だけ。

 サダオの手であの狂人を止めなければ……。


「おい、桜庭」


 上司に肩を叩かれて、背中がビクッと震える。


「データ整理をお願いできないか。関連会社からファイルが送られてきている。次の資料で上層部に見せたいから、グラフにまとめて欲しいんだ」

「はい、分かりました」

「細かい点はメールで送ったから。急で申し訳ないが、明日の午前には間に合わせてくれ」


 ここはオフィスの自席である。

 ちょうど定時を過ぎたところで、社員が続々と帰り支度を済ませている。


 今日も残業か。

 仕方ない。

 二十時までに片付けよう。

 それでも終わらなかったら、明日の朝は早く出社しよう。


「桜庭さん、俺も何か手伝いましょうか?」


 仲の良い後輩が声をかけてくれた。

 気遣いを嬉しく思ったサダオは、 


「じゃあ、今日の会議の内容を議事録にまとめてくれないか。俺の議事メモを送るから」


 と甘えることにした。

 後輩は二つ返事でOKしてくれる。


 社員が助け合う組織は良い組織。

 その定規に当てはめるなら、サダオの部署は良い部署だ。


 ふと殺人鬼フィクサーは何の仕事に就いているのか疑問に思う。


 普通に考えると無職だろう。

 あれほどのサイコパス人間が会社に溶け込めるはずない。


 その一方で大企業のサラリーマンじゃないか、という気もする。

 有名な事件の犯人がエリート大学出身の会社員だった、というのと同じだ。


 犯罪は難しい。

 バカがやると失敗する。

 警察官すら翻弄ほんろうしてしまう殺人鬼フィクサーは、実は相当に優秀な人間ではないだろうか。


 殺人鬼フィクサーは肉体を鍛えまくっている。

 デキるサラリーマン説を裏付ける材料にならないだろうか。

 日本の著名な実業家だって、トレーニング習慣のある人は少なくない。


「負けてられないな」

「ん? どうかしましたか?」

「すまん、独り言だ」


 サダオはやりかけの仕事に意識を集中させた。


 ……。

 …………。


 サダオの実家に防犯カメラを設置した。

『防犯カメラ動作中』のステッカーも目立つところに貼っておく。


 最初はダミーの防犯カメラにしよう、という案もあったが、『ちゃんとしたやつにしましょう。後悔してからじゃ遅いでしょう』とミヅキが言い出して、実績のある防犯カメラを買った。


 サダオの両親を安心させたい。

 提案してくるミヅキの目に迷いはなかった。


 父は割と平気そうな顔で暮らしている。

 警察が巡回していれば問題ないだろう、と本気で思っているらしい。


 怯えているのは母の方だ。

 強盗が捕まったというニュースが出るたびに、今回の犯人かしら、と気にしている。


 カレンは防犯カメラが物珍しいらしい。

 時々録画データをチェックして、怪しい人影がないか探している。


「あっ! また野良猫が映っている! 目がピカって光っているよ!」


 嬉しそうに結果を報告してくれた。


 人間は慣れる。

 喉元過ぎれば何とかやらで、一ヶ月もすれば緊張感を忘れるだろう。


 だからサダオは日々のトレーニングを欠かさなかった。

 ジョギングしつつ、殺人鬼フィクサーを取り逃した瞬間を思い出し、自分の体にムチを打ちまくった。


 皮肉といえる。

 殺人鬼フィクサーがサダオを苦しめているのに、頭では憎らしい男の事ばかり考えている。


 一日でも早くこの苦痛から逃れたい。

 そう思う一方、何年だって何十年だって、この不毛な争いを続けてやる、という執念もある。


 あの男に勝ちたかった。

 俺の方が強いんだ、と高らかに宣言したかった。

 そのためにも再戦する必要がある。


 父が襲われてから一ヶ月。

 殺人鬼フィクサーが鳴りを潜めている日々にサダオはみつつあった。

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