第10話 二人目の犠牲者

 ハナヨが殺されたと父から連絡があった。

 ハナヨというのはサダオの母の名前である。


 この日は車にミヅキとカレンを乗せて、隣街にある大型温泉へやってきた。

 地元の人に人気のアミューズメント施設で、オープン前の時間帯には長蛇の列ができるほどだ。


 サダオは温泉が好きだった。

 父親という任から解放されて一人になり、頭の中を空っぽにできるからである。


 色んな種類の湯があるが、一番好きなのは壺風呂。

 大人が一人で入るサイズに設計されており、ゆったりと胡座あぐらを組めて、他人の邪魔が入らない。

 水温も割と微温ぬるめだから、いつまでだって浸っていられる。


 この瞬間だけは家族の長ではなく、桜庭サダオという個人になれる。


 日本社会は人が多い。

 だから一人の時間を求めたがる。

 サダオなりに三十七年生きていた自論である。


 それからサウナでたっぷり汗を流した。

 昔は三十分くらい滞在しても平気だったが、今では十五分くらいで我慢の限界となる。


 シャワーで汗を流してから露天風呂に入ってみる。

 色鮮やかな柚子が浮かんでおり、子供が手でポンポンして遊んでいた。


 もう一度髪をシャンプーしておこうと思い、洗い場に腰かけていたとき、隣に小さい子供を連れた父親がやってきた。

 子供は六歳くらいだから、父親が髪とか背中を洗ってやる。


 何となくいいな、と思ってしまう。


 サダオは父から優しく接してもらった記憶があまりない。

 子供を注意するのだけが父親の役目と思っていたらしく、誕生日プレゼントを用意するのはサダオの母の役目だった。


 もしカレンの他にも男の子がいたら、この父親のように優しく接しただろうか。

 おそらく自分の親を反面教師にして、本当はやってもらいたかったことを一から十までやる気がする。


 本当は一緒にボードゲームで遊んでほしかった。

 学校でどんなことがあったのか質問してほしかった。

 空はなぜ青いのか、虹はなぜ七色なのか、傷口はなぜ痛むのか、当時のサダオでも分かる言葉で教えてほしかった。


『子供は勉強だけやっていればいい』


 その結果、頭でっかちの不器用人間ができるとは、あの父は思わなかったのだろうか。


 お風呂から上がり個室へ行くと、浴衣姿のカレンがソフトクリームを食べていた。

 ミヅキは雑誌をパラパラとめくっている。


「お風呂はどうだった?」

「朝イチだからそこまで混んでなかったわよ。男風呂は?」

「思っていたより空いていた。俺も何か頼もうかな」


 カレンのソフトクリームを見ていると、無性に冷たいものが食べたくなって、抹茶アイスを注文しておく。


「ミヅキも何か食べるか?」

「イチゴのデザートが食べたい!」


 横槍を入れてきたのはカレン。


「ソフトクリームを食べたのに、まだ食べる気? 仕方ないわねぇ」


 ミヅキは困ったように笑いつつ、特製イチゴミルクを注文カゴに追加する。

 何だかんだ言ってカレンに甘いのである。


 ミヅキとカレンはこの後、岩盤浴を楽しんでくるらしい。


「あなたも岩盤浴してみる?」

「今回は遠慮しておくよ。俺はここで仮眠しておくから」


 一人になったサダオは畳の上で大の字になった。


 やっぱり和室はいい。

 落ち着きのあるBGMも流れているから、忙しい日本にいることを忘れられる。


 家族もいい。

 サダオが独身なら休日にこんな場所へ足を運ぼうとは考えないだろう。


 サダオの同期には生涯結婚する気がないやつも何人かいて、お盆とか年末年始に旅行しているのを羨ましいと思う反面、休日はやることがなくて困っているらしく『まだ人生の半分も終わっていないんだぞ』と冷やかした記憶がある。


 サダオも独身だと時間を持て余すだろう。

 そういう自覚がある分、家族という空間には居心地の良さを感じている。


 ……。

 …………。


 微睡まどろんでいてハッと目を覚ます。


 スマホが揺れていた。

 会社からの急用かと思ったが、ディスプレイに映っているのは父だった。


「どうしたんだよ、父さん」


 寝起きのせいか不機嫌な声が出てしまう。


「ハナヨが……」

「母さんがどうかしたのか?」


 しばらく返事がないので待っていたら嗚咽が返ってきた。


「ハナヨが殺された」

「おい……」


 サダオは何もない空間に手を伸ばす。

 喉が締め付けられたみたいに苦しくなり、頭の内側がズキズキと痛み始めた。


 サダオの母が殺された。

 あの人畜無害そうな母が。


 誰がやったのか大方の目星はついている。

 カレンを襲おうとした犯人だろう。


 前回やってきたのが三日前。

 どういう意図があるか知らないが、今度はサダオの母が狙われて、まんまと殺されてしまった。


「警察はどうした?」

「もうすぐ到着する。サダオは今どこにいる?」

「隣街の温泉施設だ。ミヅキやカレンと一緒に来ている。本当に母さんは死んだのか?」

「間違いないと思う。酷い殺され方だった」


 父は犬の散歩に行っていたらしい。

 帰ってきて母を呼んでみたが返事がないので、おかしいと思い家中を探した。


 すると家庭菜園のところで倒れている母を見つけた。

 頭から大量の血を流したまま伏せており、名前を呼んでも体を揺すっても反応はなかった。


 やったのか。

 あの犯人が。


 現場を見ていないので何とも言えないが、かなり凄惨な殺され方という気がする。


 おそらく背後から不意に襲われたのだろう。

 鈍器のような物で繰り返し殴られた。


 金品が目的じゃない。

 桜庭ハナヨという女を殺してその遺族に精神的ダメージを与える。

 犯人の狙いはその一点じゃないだろうか。


 父が不在のタイミングを狙ったのも狡猾だ。

 犬がいると吠えるから、どのタイミングで散歩へ行くのか、何分くらいで帰ってくるのか、周到に計画していたとしか思えない。


 母が土いじりしている隙を狙ったのもそう。

 背後から音もなく接近して、楽々殺せただろう。


 卑劣極まりない。

 サダオの胸を大量の悲しみとそれ以上の怒りが支配する。


「父さん、落ち着いて聞いてくれ」

「おう、何だ」

「俺は急いで帰る。でも少し時間がかかる。その間に情報を整理しておいてほしいのだけれども、誰かから恨まれる覚えはないのか?」

「何だよ。俺を疑っているのか?」

「そうじゃない。警察からも似たことを質問される。でも変だろう。三日前はカレンが狙われて、今回は母さんだ。同じ人物かもしれない。二人に一番近いのは父さんだろう」


 しばらくの沈黙があった。

 軽いパニックになっているのだろう。

 最愛の妻を失って苦しいのは分かるが、もし犯人に心当たりがあるのなら、このくらいの苦痛は我慢してほしかった。


「とにかく俺も帰る。それより先に警察が到着すると思うから、彼らの指示に従ってくれ」


 ミヅキ宛のメッセージを作文した。


『母さんの身に異変が起こった。命に関わるかもしれない。俺は車で戻るから、ミヅキとカレンはタクシーで帰ってくれ』


 この内容で送ってから、サダオは急いで帰り支度を済ませた。


 ……。

 …………。


 現場に到着した時、実家には黄色いテープが貼られようとしている最中だった。

 サダオの行手を警察官が通せん坊してくる。


「ご親族の方ですか。すみませんが、入らないでもらえますか。証拠が消えてしまう可能性がありますので」

「そりゃ、ないだろう。俺の母さんなんだぞ。自分の実家に入るくらいいいだろう」

「すみません、ルールですから。捜査にご協力ください」


 ここで口論しても仕方ないので、ブロック塀越しに中を覗いた。


 母が大切にしていた家庭菜園が見える。

 姉とサダオが独り立ちして、自由時間が増えてから本格的に始めたやつだ。

 今はネギや大根やブロッコリーが美味しいと、誇らしそうに話していたのを思い出す。


 失敗した。

 前回に五人で食事した時、サダオは母に冷たい態度を取ってしまった。


 そうしないとミヅキの感情を逆撫ですると思ったから。

 後悔先に立たずというけれども、息子として不適格なことをやったと、母を失った今なら理解できる。


 父がいた。

 呆然とした顔で母の亡骸を見ている。

 母の顔面は土に埋まっており、後頭部は明らかに変形していて、かなり悪辣な殺され方といえる。


 父は何を思っているのだろうか。

 サダオと似たようなこと……妻に優しくできなかった自分を責めているのか。


 父のことを可哀想だと思う一方、昔から母に向かって『アホ、バカ、マヌケ』を連呼してきたから、自業自得という気もする。


「なあ、サダオ、ハナヨが死んでしまった」

「信じられない。昨日まで元気に生きていたんだ」

「俺のせいだ……俺のせいだ……俺のせいだ……」


 その場にうずくまり、愛犬のラブラドールから心配される父は、子供みたいに矮小わいしょうな生き物に思えた。

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