第2話 謎のメールボックス

 体の一部を失ったような気分だった。


 桜庭カレンの葬儀は、生前の彼女を思わせるような快晴の日、近しい親族ばかり二十余人を集めて行われた。


 サダオの両親が泣いている。

 丸二日ずっとあんな調子だ。


 遠方から駆けつけてくれた姉夫婦が両親を慰めている。

 サダオの姉には五歳になる息子がおり、まだ生死観が根付く前だから、


「どこか痛いの? おじいちゃん、おばあちゃん」


 なんて励ましている。


 妻ミヅキの両親とは一年ぶりに会った。

 頭に白いものが増えており、一気に五歳くらい老けたように感じられた。


 心配なのはミヅキのコンディションだった。

 カレンの死に関する手続きは全部サダオが引き受けておりおり、警察官が捜査協力を依頼してきた時だけ、ミヅキにも同席してもらった。


 カレンが刺されたと推定される時刻は、水曜日の十八時から十八時半の間。

 カレンが祖父母の家から帰ってくる最中だった。


 サダオの両親は小さな川を一本隔てたところに住んでいる。

 橋を迂回するルートが距離にして五十メートルくらい。


『本気で走ったら十秒もかからなかったよ!』と生前のカレンが話していた通り、目と鼻の先なのだ。


 そこから帰宅中にカレンは殺された。

 胸にナイフが刺さったままガードレールを乗り越えて、下の河川敷に転げ落ちたのである。


 救急隊が駆けつけた時、微かに脈はあったらしい。

 徐々に死にむしばまれていくという痛ましい殺され方だった。


 犯人について目星は付いている。

 といっても特定の誰かではない。


 サダオが住んでいる隣の自治体で、不審者によるナイフ切りつけ事件が二件発生していた。


 犯人の身長は百七十センチ前半、ロングコートを羽織り紳士向けの帽子を被った人物、というのが被害者の証言である。

 おそらく男だが、女が変装していた可能性も捨てきれない。


 被害に遭ったのは二十代の女子大生と六十代のパート主婦。

 女子大生は二の腕を、パート主婦は臀部でんぶを切られており、いずれも一人で夜道を歩いている最中だった。


 物騒な事件だからカレンの学校でも注意喚起のアナウンスが出されていた。

 見回りパトロールを強化する一方、頭のおかしいやつが通り魔をやっている、そのうち警察が捕まえるだろう、という楽観した気持ちもあった。


 カレンがナイフで殺された。

 犯人は捜索中であるが、例の通り魔がやったと考えるのが妥当だろう。


 なぜカレンなのだ、と思う。

 小学校は一学年四クラスあって、全校だと六百人近い生徒がいる。

 他の誰かじゃなくて、なぜ自分の娘なのだと。


 ミヅキは自分のせいでカレンが死んだと思っている。

 サダオの両親もひどく自己を責めていた。


 当日、カレンを家まで送って行こうとしたが、カレンが『一人でも大丈夫だよ』と言い張るものだから、そのまま一人で帰したらしい。


 内緒で後ろから追いかけていたら……。

 犬の散歩にかこつけて自分も家を出ていたら……。

 後悔に意味はないと分かっていても、消えない呪いのように付きまとうのだろう。


 父も母も厳格な人だった。

 サダオの生活態度が悪いと口やかましく注意し、しかし学校でサダオが表彰された日には人が変わったみたいに褒めてくれた。


 サダオが就職する時だって『物を作っている会社にしなさい。不景気でも耐えられるところがいい』と堅実なアドバイスをくれた。


 二人はカレンに甘かった。

 子よりも孫の方が可愛い、というのは周りの話でそれとなく知っていたが、人は歳を取っても変わるものなのだと新鮮な気持ちにさせられた。


 そのカレンが死んだ。

 誇張でも比喩でもなく四人の世界は暗黒になった。


 葬式も一段落して荼毘だびに付したカレンの骨を持って帰ろうとした時、顔見知りの警察官がやってきた。

 四十絡みの男性で、刺殺事件を担当している中核メンバーの一人だ。


 険しい目つきから察するに、嬉しい情報でないことを察したサダオは、ミヅキをその場に残したまま声の届かない距離まで移動した。


「少し離れたところの公園で、新しい凶器が見つかりました」


 そういって一枚の写真を見せられる。

 ホームセンターで売られているような細身のナイフで、刃のところに乾燥した血が付着していた。


「現場に残されていたナイフが凶器じゃなかったのですか?」

「どうやらナイフを二本使ったようです」


 一本目のナイフが骨か何かに引っかかり抜けなくなったのか。

 あるいは一本を急所に突き立てて、二本目で滅多刺しにする計画だったのか。


 どこまで凶暴なのだ。

 目の前に犯人がいたら、サダオの手で同じ目に遭わせてやりたい。


「念のために確認ですが、こちらのナイフに見覚えは?」

「いえ、ありません」

「奥様に確認しても?」


 サダオが振り返ると、不安そうな目をしたミヅキと視線がぶつかる。


「すみません。妻は神経をすり減らしていて限界です。ナイフの品名とか型番を教えてもらえますか? 落ち着いて話せる状態になったら私が確認しておきます」

「分かりました。お願いします」


 警察官は足早に去っていった。

 ドライな態度といえるが、変に気を遣われるよりマシだった。


 上司からは気持ちが安定するまで仕事を休むよう指示されている。

 必要なら精神医のカウンセリングを会社が手配するとも。


 けれどもサダオは最短で職場復帰しようと考えていた。


 家にいるとカレンのことばかり考えてしまう。

 サラリーマン桜庭サダオとして、歯車の一つになった方が楽という判断だ。


 カレンなんて娘は元からいなかった。

 桜庭家は二人だけの夫婦だった。


 職場にいる間だけでも自分に嘘をつくことで崩れそうになる心を守りたかった。


 ……。

 …………。


 カレンの葬式から一週間が経った。


 ミヅキは心療クリニックに通うようになり、睡眠導入剤を処方してもらった。

 一日の半分は眠ったまま過ごしており、残りの半分でかろうじて家事をこなしている。


 派遣の仕事には行っていない。


 本人は覚悟を固めている最中だろうが、いったんパートタイムに切り替えるのが理想だろう。

 カレンがいなくなった以上、お金を心配する必要もないわけで、自分のやりたい事を一個でも見つけてほしかった。


 カレンの部屋は当時のままにしている。

 一回だけ小学校でカレンと仲の良かった女の子が来て、『このお手紙をカレンちゃんに渡したくて』と仏壇ではなくカレンの勉強机に置いていった。


 この一軒家はカレンが小学校へ上がるタイミングで新築したものだ。

 築五年目になるが、サダオの両親がまとまった頭金を出してくれたので、ローン残高は大した額じゃない。


 急に家が広くなったな。

 床にワイパーをかけるサダオの頬を涙が伝う。


 まただ。

 一日に一回は急に涙が出てしまう。


 歯を磨いている最中だったり、仕事のメールを打っている最中だったり、タイミングはまちまちだ。

 頭ではカレンのことを考えないようにしても、深層心理ではカレンとの思い出を懐かしんでいるのだろう。


 この辛さをずっと背負うのか。

 平凡に思えた日々がいかに恵まれていたのか痛いほど理解した。


「くそっ!」


 ソファーで微睡まどろんでいたミヅキがびっくりして目を覚ました。


「すまん、邪魔したな」

「ううん、いいの。それよりもあなた、無理してない? 拭き掃除くらいなら私でもできるから。そうだ。どうせならお風呂場の電球を交換してほしいな。もうすぐ切れそうなの」

「分かった。お安い御用だ」


 サダオは黒ずんだシートをゴミ箱へ捨てると、ワイパーを元の位置に戻して、財布を尻ポケットに突っ込んだ。


 大型スーパーまで片道十五分。

 散歩するにはちょうどいい距離だ。


 サダオの家には一点困ったところがあって、駅へ向かうにも、スーパーやドラッグストアへ向かうにも、小川にかかった橋を渡らないといけない。

 必然的にカレンが殺されたであろう現場を見ることになり、どうしても憎しみの炎が胸を焦がす。


 あれから警察官とは何回か会っている。

 目ぼしい手がかりはない、捜索の手を広げている。

 いつもテープで録音したような報告を受ける。


 本気で捜査をやっているのだろうか?

 次の犠牲者が出るのを待っているのではないか?

 誰だってサダオと同じことを邪推したくなるだろう。


 スーパーには同じメーカーの電球が三種類あって、60W、40W、20Wがそろっていた。

 ミヅキに少しでも元気になってもらいたくて一番明るい60Wを手に取っておく。


 小腹が空いたと思い、おつまみコーナーへ足を運ぶ。

 昔によく食べていたミックスナッツを見つけて、一緒にレジまで持っていった。


 帰りがけ、事件の現場で足を止めた。

 誰かの置いていった花とお菓子を見つける。


「桜庭サダオさん、ですよね?」


 ふいに声をかけられたので振り返ると、リュックを背負った若い女性が立っていた。


「突然すみません」


 週刊誌名が印刷された名刺を渡される。

 センセーショナルな事件の遺族のところには、マスコミが頻繁にやってくると聞いたことがあり、サダオを訪ねてきたのは彼女でちょうど十人目だった。


「直接お話をと思いまして。少しお時間をいただけないでしょうか?」

「もしかして、あの花はあなたが?」

「差し出がましいのは承知しておりますが、事件に巻き込まれた桜庭カレンちゃんに少しでも届けばと思いまして」


 サダオは二回頷いた。


「そうですか。ありがとうございます。そこに我が家がありますので。コーヒーくらいでしたらお出しできます」


 女性は深々と頭を下げた。

 サダオが接してきたライターの中で彼女がもっとも礼儀正しかった。


 ……。

 …………。


 三十分のインタビューを終えたサダオは、四畳半の作業部屋へと向かった。


 不思議と心がすっきりしていた。

 カレンとの思い出なんかもヒアリングされて、サダオが残業続きで遅い時、カレンが握り飯を作ってくれたエピソードを話すと、記者さんは親身なってうんうん頷いてくれた。


『犯人のことが許せません』

『一日でも早く捕まって重い処罰を受けてほしいです』


 サダオの口からお決まりの文言を引き出すのが目的なのは分かる。

 どんな記事だってストーリー性が必要だろう。


「確か引き出しの中に……」


 久しぶりにタブレット端末を起動させてみる。

 ダウンロードが走っているのか、動かせるようになるまで時間がかかる。


 これから記者が原稿を書く。

 完成したらメールで送ってくれるという約束だ。


 プライベート用のアドレスには未読のメールマガジンが二百件くらい溜まっており、ローディングに時間を要した。


「……ん?」


 受信ボックスの下にもう一個メールボックスがある。

 覚えはないが『タイム・リープ』と名前が付いている。


 中を覗いてみた。

 受信ボックスと同じで、未読のメールマガジンが溜まっていた。


 最新のメールで二時間前だ。

 システムのバグかと思ったサダオは、恐る恐るといった感じでメールを開いてみた。

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