メール・タイム・リープ・キラー

ゆで魂

第1話 始まりの電話

 午後八時になったオフィスは人影もまばらで、パソコンをタイプする無機質な音だけが支配していた。


 桜庭さくらばサダオは眠気覚ましのタブレットミントを一粒口へ放り込むと、書きかけのメールを完成させてから送信ボタンをクリックする。


 会社も変わったな、と思う。

 サダオが入社したばかりの十五年前は、どの社員も遅くまで残業していて、ロッカーに寝袋を置いているような猛者は珍しくなかった。

 コンプライアンスが強化された昨今では、残業しないことが美徳とされている。


 サダオのブランディング戦略部でもそうだ。

 デスクを向かい合うように二つずつ、それを八つ配して十六名。

 さらに部長の席と課長の席が通路を隔てた位置にあるが、残っているのはサダオと二十代後半の男性社員が一人だけ。

 その男性社員もデスクのゴミを片付けているから、そろそろパソコンの電源を落とすだろう。


「桜庭さん」


 サダオは座ったまま顔を上げた。


「出張の事前申請を上げておきました。課長の代わりに承認してくれると助かります」

「おう、分かった」


 課長補佐のポジションにあるサダオは、課長の代わりに事務処理する権限を持っており、雑務を一手に引き受けることが多い。

 課長補佐といえば格好いいが、上からも下からも便利屋のように扱われたりする、貧乏くじのような役回りといえる。


「桜庭さんって、結婚したの早いですよね」


 サダオの後ろを通りがかった部下がデスクをのぞき込む。

 その視線の先にあるのは妻と娘が一緒に写ったサダオの家族写真である。


「ああ、そうだな。二十四歳の時に結婚したな」

「二十四歳⁉︎ まだ入社して三年目ですよね」

「女房が二歳上なんだ」


 どうせ結婚するなら早い方がいいのではないか。

 サダオの同期の中には女を取っ替え引っ替えするやつもいたが、限りある時間と金を無駄にしているようにしか思えなかったので、早めの結婚にそこまで抵抗はなかった。


「娘のカレンが生まれたのが二十六歳の時だな。同期は独身のやつの方が多かったし、かなり早い方かもしれん」


 あれから十一年経ったから、カレンも十一歳になっている。

 父に対して素っ気ない態度を取ることが増えた反面、欲しい物がある時だけは馴れ馴れしくて、そのギャップが可愛かったりする。


 妻との会話も半分はカレンに関することだ。

 サダオは放任主義なところがあって、カレンを滅多に叱らないが、妻としては家長の威厳をもっと発揮してほしいらしい。


「お先に失礼します」

「おう、お疲れ様」


 広告代理店の担当者からメールが届いた。

 モデルチェンジした自動車の新ポスターについて、サンプルが出来上がったのである。


 さっそくURLをクリックしてみる。

 三つのバージョンがあって、担当者のお勧めは三つ目だと、暗に書いている。


『安全性をアピールするのが昨年のトレンドでしたが、今年は燃費の良さをアピールした方が購買層の心に刺さりそうです』


 一理ある。

 地球に優しい車、というのはサダオの会社でも今年のテーマに挙げている。


 腕組みをしながら考えていると、スマホが揺れた。

 妻のミヅキから電話だった。


 珍しい。

 この時間、用事がある時はメッセージを送ってくるのが基本だ。

 昨年に一度、給湯器からお湯が出なくなったとかで、サダオに電話してきて以来だろう。


 サダオはカフェコーナーへ移動しつつ通話をタップした。


「俺だ。どうした?」


 しばらく待ってみたが沈黙が続く。

 後ろでピコピコと電子音がしているから、電波の調子が悪い訳ではないだろう。


「ミヅキ?」


 優しく名前を呼ぶと、鼻をすする音が聞こえた。


「どうした? 体調でも悪いのか?」


 ミヅキは派遣社員として事務の仕事に携わっている。

 大体二年おきに派遣先が変わるのだが、新しいところは人間関係がギスギスしており、本来ならば正社員がやるべき仕事を押し付けられるとかで、メンタルを少し病んでいた。


『パートタイマーの仕事に切り替えて、負担を減らしてもいいんだぞ』


 サダオとしては無理して欲しくなかったが『もう少し頑張ってみる』というのがミヅキの回答だった。

 根が負けず嫌いなのである。


「あのね……カレンがね……カレンがね……」

「どうかしたのか?」


 サダオは意味もなくスマホを右手から左手に持ち替えた。


「さっき病院から電話があって……」

「病院?」


 喉のあたりを酸っぱい味が駆け上ってくる。


「心肺停止が確認されたって……血まみれで倒れているのを近所の人が見つけて……警察の人が言うには、胸にナイフが刺さっていて、その傷が原因で出血性ショック死したんじゃないかって……」

「ちょっと待て。見つかったのは本当にカレンなのか?」

「そうよ。もう捜査が始まっているの」


 よろめいたサダオの背中が壁にぶつかった。


「死んだのか? カレンが?」

「殺されちゃったの。どうしよう。私のせいだ。私が帰るの遅かったから」


 違うだろう。

 カレンが死んだのは殺人犯のせいだろう。

 途中まで出かかった言葉をサダオは飲み込む。


「俺も病院へ行く。タクシーですぐに向かう。いったん電話を切るが、すぐにかけ直す」


 夜のガラス窓には疲れた顔つきの自分が映っていた。

 二十代の頃より髪の毛は薄くなり、しわと染みだけが増えて、目の周りだけ他のパーツより十歳くらい老けている。


 生きがいの大半が愛娘のカレンだった。

 ちゃんとした父親でいたくて、カレンの成人式や結婚式を見届けたくて、今日までひたむきに生きてきた。


 女性と結婚して、子供を授かる。

 家庭を持つとは、自分の人生が自分のものじゃなくなることを意味する。


 そのカレンが死んだ。

 スマホを床に叩きつけそうになり、クソッ! と自分でもびっくりするくらいの大声を出してしまう。


 人はショックを受けると目の前が真っ暗になるといわれるが、あれは嘘だ。

 その証拠にサダオの意識ははっきりしており、いつも利用しているタクシー会社へ電話している。


「すみません、至急で一台お願いします。急いで病院へ向かわないといけなくて……」


 対応してくれた声は優しくて、荒れ狂いそうになる心に一滴の冷静さをくれた。


 帰りの荷物をまとめると、カレンを刺し殺した犯人がいるであろう空を、サダオは冷たい目で睨んだ。

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