第3話 この仮説が正しければ……

 脳みそにノイズが走ったような気がした。

 手足が一瞬、電気ショックを受けたみたいに震える。


 サダオは目を瞬いてからタブレット端末を見た。


 何の変哲もないクレジットカード会社からの案内メールが表示されている。

『新規入会特典! 最大5,000ポイント!』という文言に続いて、お得なキャンペーンやら投資信託やらの情報が付いている。


 タブレット端末をデスクに置き、いったんリビングへ向かった。


 さっきの痺れは何だろう。

 心労のせいで体が異変を起こしたのか。


「あれ? ないぞ」


 さっきスーパーで買ってきたミックスナッツがない。

 電球の入っていた袋ごと消えているから、ミヅキがどこかへ片付けたというのか。


 サダオが財布を開いてレシートを探していると、ソファで寝ていたミヅキは猫みたいに大きな欠伸をもらして、虚な目を向けてきた。


「体調はどうだ? 何か飲みたい物でもあるか?」

「ううん、平気。淹れたままのコーヒーがテーブルに置きっ放しだから。ありがとう。あら、あなた。財布なんか持っちゃって。これからお出かけするの?」

「ああ……要らないレシートを整理しようと思って。何か買ってこようか?」

「もしスーパーへ行くなら電球を買ってきてくれないかしら。お風呂場のが切れそうなのよ」


 電球? とサダオは呟く。


「それなら俺が買ってきただろう?」

「いつ買ってきたの?」

「ついさっき」


 何がおかしいのか、妻はクスリと笑う。


「あなた、さっきまで洗濯物を干してくれていたじゃない。その前はトイレとお風呂の掃除。電球を買いに行く暇なんて、無かったでしょう」

「…………」


 サダオの脳みそは麻痺したみたいにフリーズした。


 確かに洗濯物は干した。

 トイレや風呂の掃除もしたが、もう二時間くらい前の話だ。


 きっとミヅキは睡眠導入剤のせいで頭がぼんやりしているのだろう。

 財布に溜まっていたレシートの束を捨てたサダオは、ふと壁の時計を目にして、眉間に皺を寄せることになる。


 時計がかなり遅れている。

 針は二時間ほど以前を指しており、普通なら電池が弱っているのかと納得するシチュエーション。


 電池を交換したのだ。

 サダオが今月の頭に。

 他に考えられるのは時計のパーツが故障している可能性だが……。


 サダオはスマホのスリープを解除してみた。

 デジタル表示されている時刻を目にした瞬間、間違っているのは時計ではなく自分の感覚らしいことに気づき、首の裏をかきむしった。


 念のためミヅキのスマホも調べてみる。


 やっぱり二時間前の時刻だ。

 サダオは同じ時を二回生きている。


 起きたまま夢でも見ているというのか。


 サダオは家中にワイパーをかけてから、スーパーまで買い物に行き、ミックスナッツと電球を買っておいた。

 まったく同じ商品を選んでおいたし、まったく同じレジに並んでおいた。


 前回と同じルートで家を目指す。

 すれ違う通行人の顔まで覚えていないが、柴犬を散歩させているお年寄りがおり、首に巻き付けてあるスカーフには見覚えがあった。


「桜庭サダオさん、ですよね?」


 例の女性記者から声をかけられた。

 カレンが刺された現場には花とお菓子が供えられており、これと瓜二つのシーンを知っている。


「直接お話をと思いまして。少しお時間をいただけないでしょうか?」

「もしかして、あの花はあなたが?」


 記憶にあるシーンを追体験していく。

 前回と同様、家でインタビューを受けたのだが、記者の口から出てくる質問はどれもサダオの知っている内容だった。


 ……。

 …………。


 サダオは時をさかのぼっているらしい。

 いわゆるタイム・リープというやつだ。


 条件は『タイム・リープ』というメールボックスに入っているメールを開くこと。

 受信した日時まで飛ぶことができる。


 試しにクレジットカード会社からのメールを三回開いてみたら、三回とも同じような過去を体験できたので、ランダム性のような要素は介在しないらしい。


 あの女性記者とも三回会った。


「以前にどこかでお会いしましたっけ?」

「いえ、会うのは初めてだと思います」


 覚えているのもサダオの方だけ。

 手品とかインチキというレベルじゃない、魔法じみた現象が起こっている。


 これはカレンの死と関係しているのだろうか。

 最後にタブレット端末を触ったのが何月何日だったか思い出せないが、『タイム・リープ』なんてメールボックスは無かったし作成した覚えもない。


 仮に、だ。

 あれを神様が用意してくれたとしよう。


 あの不思議な力を使ってカレンを救えという暗示じゃないだろうか。


 カレンが死ぬ前まで時を遡る。

 事件の現場で犯人を待ち伏せしておく。

 ナイフの攻撃からカレンを守る。

 犯人も叩きのめしておく。


 できるとかできないじゃない。

 やり遂げる、その一択である。


『タイム・リープ』にあるメールで一番古いのは三十日前。

 サダオの仮説が正しいなら、カレンを救うには十分すぎる猶予がある。


 机の隅にある家族写真を手に取った。

 これと同じ一枚を職場にも置いていたが、今はデスクの奥に隠してある。


 カレンが楽しそうに笑っている。

 ミヅキが幸せそうに抱きしめている。

 サダオは下手くそな笑顔を浮かべているが、今の自分なんかより何倍も幸せそうだ。


 取り戻せる。

 カレンを、ミズキを。

 三人だった家族の時間を。


 サダオの両親だって事件現場を見るのが辛くて、ほとんど家から出なくなってしまったが、カレンが死んだという事実を改変できれば、以前のように朗らかな老夫婦に戻ってくれるだろう。


「待っていろよ、カレン。お父さんが必ず助けてやるからな」


 時を遡るターゲットは火曜日。

 カレンが殺される前の夜。


『あなたも転職エージェントを利用してみませんか?』という件名のメールをサダオは開いた。


 ビリビリビリッ!

 脳裏に走ったノイズは前回の何倍も激しかった。


 ……。

 …………。


 繰り返しドアをノックする音がする。


「お父さん! ねぇ、お父さん!」


 懐かしい声だった。

 一年ぶりに聞いたような気がする。


 サダオは自分の体に触れてみた。

 部屋着をまとっているから風呂上がりだろう。

 髪の毛がわずかに湿っており、体の芯がポカポカしている。


「痛ッ……」


 人差し指がチクっとした。

 仕事中、紙で切ってしまった部分だ。

 とっくに瘡蓋かさぶたになったと思っていたが、まだ傷口が痛むということは……。


「お父さん! ねぇ、聞いてる⁉︎」


 震える手でドアを開けると、腰に手を当ててぷりぷりに怒るカレンが立っていた。


「お風呂から上がったら三人でアイス食べようって。味が三種類あるんだよ。お父さんはバニラ味でいいのかって、お母さんが聞いている」


 ふくれっ面になっている娘をサダオは抱き寄せた。

 布越しに伝ってくる温もりを肌でしっかりと感じ取る。


「えっ? 急にどうしたの?」

「カレンなんだよな? 本当に生きているんだよな?」

「当たり前だよ。だって、ここ、カレンの家だもん」


 カレンの家。

 そうだ、カレンのために家を建てた。

 子供部屋はどういう設計がいいとか、カレンは何色が好きとか、家族三人で相談しながらデザインした。


 カレンが消えてしまった家に意味はないことをサダオは思い出した。


「ごめんな。びっくりさせて。さっき、カレンが事故に巻き込まれちゃう夢を見たんだ。カレンがちゃんと生きているのか心配で、心配で。お母さんも夢の中で泣きそうになっていた」

「変なの。それって飛行機が落ちるやつとか? カレン、事故で死んじゃうなら一瞬で死ぬのがいいな。海に落ちてサメに食べられるとかが一番嫌だ」

「そうだな。苦しいのは嫌だよな。お父さんも同感だ」

「あと飛行機に乗るなら沖縄行きたい。昔に行ったってお母さんは言うけれども、カレンは幼稚園だったから、パイナップルジュースを飲んだことしか覚えていないもん」

「いいな、沖縄。次の連休に行ってみるか。本物のイルカに触れるんだぞ。お腹の辺りはプニプニしているが、背ビレとか胸ビレはびっくりするくらい硬いんだ」

「えっ⁉︎ お父さん、イルカに触ったことあるの⁉︎ いいな〜、カレンも沖縄のイルカに触りたいな〜」

「触らせてやる。お父さんからお母さんにお願いしてみる」

「うん! お願い! カレンからお願いすると絶対に無理って言うから。お母さん、新しい仕事が大変なんだってさ」

「ああ、約束だ。家族でリフレッシュしよう」


 カレンのきれいな髪をクシャクシャしてみた。

 サダオと両親はくせ毛だから、妻の血に似たのだろう。


 ホクロの位置とか、歯の形とか、以前のサダオなら意識しなかったことに気づけた瞬間、カレンという存在が奇跡なのだと思えてきた。


「アイス〜♪ アイス〜♪」


 カレンを追いかけてリビングへ向かうと、ベージュ色の寝巻きをまとったミヅキがいた。

 最後に会ったミヅキと同一人物とは思えないほど肌に色艶があり、背筋だってぴんと伸びている。


「はい、お父さんのスプーン」


 父の日にミヅキとカレンがくれたやつだ。

 持ち手のところに『SADAO』と彫ってある。

 世界で一本だけのスプーンなんて気恥ずかしいと思っていたが、今なら胸の奥が熱くなる。


 サダオは家族から愛されている。

 同じくらいサダオも家族を愛している。


 久しぶりに家族三人でテーブルを囲んだ時、心の中に光が満ちていった。


「ミヅキ、いつもありがとうな。仕事が忙しいのに家事までやってもらって。俺に言ってくれたら次からは俺がやるから」

「どうしたの、あなた。いつもやってくれているでしょう。ゴミ出しとか、お庭の掃除とか」

「もっと俺がやるよ。会社の仕事だって落ち着いている。だから遠慮するな」


 カレンが冷たいカップアイスを押し付けてきた。


「今日のお父さんとお母さん、変なの。早く食べないと溶けちゃうよ」


 この夜口にしたバニラアイスは、サダオの人生で一番美味しかった。

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