第21話 蓼は外にいた小さな虫を寮に持って帰ってきた。

 蓼は外にいた小さな虫を寮に持って帰ってきた。小さな箱に入れて、毎日水を入れたり食べ物を入れた。朝起きた時も、帰ってきてすぐも何回も箱を覗き込んで、蓼なりに気にしながら飼ったが、哀れな虫はすぐに死んだ。


 蓼はごめんよと何回も言いながら、死んだ虫と箱の中身を虫がいたもとの場所に一緒に埋めた。蓼はとぼとぼと歩いて寮に戻って、ノビルの部屋に行って勝手にベットに横になってぶつぶつ呟いていた。


「なぜ死んでしまうんだ? 私が愛したものは全部私のもとからいなくなる」


 蓼は自分の欲望と現実の選択肢との折り合いがついていないようだった。色付いた果実に手を伸ばして、自分が降りられない高さの場所にいることに気が付いた子供のようなものだった。子供は泣いていた。しかし蓼は子供ではなかった。蓼はもう十分すぎるほど大きくなっていた。


「知ってるんだよ、こんなの馬鹿らしいって」


「ねえ、届いたよ!」


 オオバコが嬉しそうに部屋に入ってきた。その腕には少し大きな箱が抱えられていた。


「わあ、来たんだね」


 オオバコと蓼とノビルの三人で買った時計が届いたようだった。


「どこに飾ろう」


 オオバコが二人の目を交互に見つめながら言った。


「君の部屋がいいと思う」


 ノビルはオオバコを見てにこやかに笑って言った。


「いいの?」


 オオバコは少し不安気に蓼の顔を見たが、蓼もにっこりと笑いながら同調した。


「そうだな、それがいい」


 オオバコはとても嬉しそうに、二人を自分の部屋に誘った。そして皆でオオバコの部屋に集まって、箱を開けた。


「おー」

「動いてないようだが」

「電池は別売り」

「なんてこった……」

「あるからあるから」


 オオバコは電池を取り出して、時計にはめた。


「動いてる動いてる」


 蓼が大げさに驚くので皆で笑った。


「でもこれがあんな値段なんてやっぱりぼってるよね」

「ぼってるぼってる」

「家畜には身に余る贅沢品だと判断したんだろう」


 狭いスペースでそれぞれ寝そべって、時計の音を聞いていた。


 カチカチと秒針の音が鳴っていた。


 オオバコがしくしく泣き始めた。


「ああ、死んじゃうんだねえ、みんな」


「……」


「なのに、どうして、こんなことしているのだろうね……」


「……そうだな」


 ノビルはベットの上であの時の泣いていた子供の言葉を思い出していた。ノビルはあの時いなくなった子供の言葉を聞いていた。その時のその言葉は、単なる雑音のようなものだったが、今になってパズルのように形が合わさって現れてきて、意味がはっきりしてきた。


――君が耳を塞いでいる間に、私がいなくなって、君は現実が変わったと思うんだ。でも君は自分も変わっているっていうことが見えているの? 昔より痛む場所は増えたんじゃない? 昔より目が悪くなったんじゃ? 諦めることが増えたんじゃ? 君も変わっていってるんだよ、僕がその場所から消えるように、それは時間と定義されるものによって


――僕はもっと、もっと美しい世界が見たいんだよ。だから動くんだ。耳を塞いでクラゲのように流れに任せて、有象無象の衆になって、美しい世界を壊したくないんだよ!


――クラゲは壊されてから泣くんだ。そこで何人かはクラゲなんて嫌だって思って泳ぎだすけど、殆どの人はクラゲのままなんだ。潮の流れから逃れることはできないんだよ、日常が余りにも不自由で規則正しく決められているから。


――でもそれでもいいと思ってるんだ。多くの人は泣いたり怒ったり傷付けあったりしかできず、ただその数の暴力によって、物事を膨らませたり、もしくは全く無意味にすることしかできないんだ。


――誰かの言葉が、誰かのしたことが、どこかの誰かに届くんだ。多くの生き物がそうして生を、この連鎖をつないでいったように、私達の言葉も、したことも、どこかでつながっていくんだ。どんなに失敗に見えても、それを見る私達の瞳が、手のひらが、それを美しい形に変えていくことができるんだ


――みてごらん、君も。誰かの声が聞こえてくる。雨に打たれて分かることがあるんだ。遠くに君と同じ雨に打たれている人が見えないか? あの人は何を言おうとしているのだろう? 聞いてごらん。二人で泣くことしかできなくても、その人が君を傷付けて血を流させたとしても、またそこから君は学ぶことができる。その人もまた君から学ぶことができる。君がこの出会いを美しくしようと思ってさえいれば。


――耳から手を放して、瞳を開けて見れば、美しい世界が待ってる。もったいないよ! 君がそう思えば、そうしようと行動すれば、世界は美しくなるんだ。私達が生きているこの小さな世界で、昔の人達が家を作ったように、樹を植えたように、心をひらいて多くの人と笑いあったように、私達もそれができるんだ。


――多くの恐ろしいものが君を待ち受けているように思えるね。でも、この人生を無駄にしてしまうこと以上に、恐ろしいことがあるっていうの?


――君は死んでしまって、そしてみんなもれなく死んでしまって、多くの人とは一回会ったきり、もう会うことはないのに、それなのに、どうして誰かを傷付けていられるの? どうして自分を傷付けていられるの?


――ねえ、一番傷ついているのは、だれ?


――もう嘘なんてつかなくていいんだ。君が本当に自分の痛みを感じられた時、他の人の痛みも分かるようになるんだよ。君が本当に自分の喜びを知れた時、この人生の意味が分かるようになるんだ……


 時計は結局オオバコの部屋ではなく、勿論それ以上に精神不安定な蓼の部屋でもなく、ノビルの部屋に置かれることになった。

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