第19話 ノビルは宿舎で目を覚ました。

 ノビルは宿舎で目を覚ました。いつもの気が狂うような起床の音楽に体中を舐められるように起こされたのではなく、少し早く自然に目が覚めた。何か素晴らしい夢でも見たようだった。あのときの蓼に対する愛情や、他の様々な人や生き物に対する愛情、あの様々な色をかすかに思い出そうとはするのだが、すべてがまるで霧がふっと吹いた風ですっかりなくなってしまったかのように、ノビルの前から消えてしまった。


 ノビルは仕事場で会った蓼をどう見ていいか分からなかった。しかし蓼もノビルもいつも通り削ったり運んだり片付けたりを繰り返して仕事を終えた。


 蓼とノビルは二人きりになれる場所まで歩いた。昨日のように遠くまでは行かなかったが、人気のない大量の打ち捨てられた小石とゴミばかりの干乾びた川辺まで来て、座った。


 ノビルは蓼に声を掛けた。


「何かとても素晴らしいものを見たような気がする。確実に何かを感じた。でも、忘れちゃったんだ」


「ああ……」


 そう言って蓼は唐突に涙を流し始めた。


「この世界のおかげで確実に救われる人々がいるのに。事実私は救われた。本当に生きててよかったと思えたんだよ。それってもしかして、人生で一番重要なことじゃないか? 例えそれで現実が変わってなかったとしても、内面の、私という人間の全てが変わったんだ。これは日々の生活のかけがえのない出会いのようだよ。私は素晴らしい友人に出会ったんだ。これは一つの目標になるし、人々を結束させる力があるんだよ」


「君は何を見たの? 何を感じたの?」


「救いそのものだよ。私が見たかった世界だ」


 蓼は一人話し始めた。


「これを人々が知らないのは……それどころか罪とされているのは、恐ろしい機会損失だよ。本当にこれが全ての人々の救いになるとは思わない。世界が狂っていたらその狂気に飲み込まれてしまうかも知れない。誰かを裁く人間だったら自分自身が裁かれてしまうかも知れない。しかし必ずいるんだ、これによって救われる人々が。


 救いなんて大層なものではないのかもしれない。すべての色が見えることは、それは単にすごく楽しくて……踊っているだけで、笑い合っているだけで楽しいなんて素晴らしいことじゃないか? 何も壊さないで、騙さないで、奪わないで、殺さないで、消費しないで、それができるんだよ?」


 そう言って蓼は泣きながらノビルの目をじっと見つめた。


「あの空の美しさを、本当の美しさを教えてくれるものが一体いくつある? 私のこのどうしようもない偏見や、間違った思考を、全部溶かして本当のことを見せてくれるものが一体いくつある? 限りない欲望を忘れさせて、本当に大事なものを見つけさせてくれる友人が……この世に何人いるんだい?


 目を閉じれば見えるんだ、私の理想郷が……ただ美しい音楽を聴いて、誰もがこの美しい声を聞けるようになって、ただ楽しく踊って、この、単純で複雑な真実が目の前に現れている……そう、手を振れば手を振り返してくれるんだ。


 ここに色はあるのに。どうしてそれに気付けないんだろう。


 一体何人がこの世界を知らずに死んでいったんだろう? なぜ人々はこの世界を罪とするのだろう? 人を裁く人は裁かれてしまうから?


 それは恐らく毒出しのようなもので……心を鎮ませられれば、美しい音楽があれば、美しい自然があれば、美しい人々さえいれば、全くなくなってしまうものなんだ。もう何にも関係ないんだよ。人は何の報酬もないのに幸福になれるんだ。美しい花がどこにでも咲くように。


 私が最も悲しくてやりきれないのは……今すぐ皆がこの穴ぐらから飛び出して、それこそ労働者も管理人も資本家も街の人々もなにもかも、笑い合って、ケンカもして、バカみたいに笑って、赦し合うことができるのに、


それができるのに、できないことなんだ。人間は自分で自分を縛ってる。そして他人も縛ってる。それぞれが緩く緩く、細い糸がどうしようもない位に絡み合っている。


 本当に、私はただ、みんなでこの平和に辿り着きたいだけなんだよ。行きたくなければそれは自由だよ。でもなんで、心からそうしたい人まで縛り付けるんだ?どうして愚民を作る? 愚になりたがる?


 私達は本当に愚かで醜いんだ。その中でさえ争って……。その愚かしい人間を、少しだけ真実の世界へ連れて行ってくれるものを、どうして人は罪と呼ぶのか? 目を潰して、触覚もなくして、ただ土を舐めているのが人生じゃないんだよ! この世界に生まれてあの人と出会えたこと、あの美しい自然と触れ合えること、あの夕暮れが見れること、川の流れ、早朝に鳥が飛び立って、虫が私の近くを飛んでいく……その全てを、どうしてアスファルトやスーパーマーケットや、したくもない労働で埋め尽くそうとするんだ?


 いや、こんな言葉もきっとどうでもいいんだ、何もかも。ただ私達は心を鎮めて、自然の中にいて、それを摂りさえすれば……全て分かることなんだ。


 なぜそんな簡単なことができないんだ……」


 蓼は顔を俯けて泣き始めた。

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