第18話 蓼が宿舎に戻るのが遅いことにノビルは気が付いた。

 蓼が最近宿舎に戻るのが遅いことにノビルは気が付いた。そしてある日仕事が終わった後、蓼の後をこっそりとついていくことにした。


 労働者が穴ぐらからぞろぞろと出て、宿舎に帰ったり周りをうろついたり、雑談したりしていた。ノビルはなにか買う振りをして、蓼を横目で探してついていった。


「どこいくの」


 オオバコがノビルに声を掛けた。


「少し用事で」


 蓼を見失わないように、蓼の姿を目で追いながらノビルは答えた。


「蓼くんのこと?」

「そうだよ」

「困ったね、いつも君に心配かけて」

「別に困ってないし、心配もしてないよ。友達だからね」


 オオバコと別れ、ノビルが後を追っていくと、蓼はどんどん坑道からも宿舎からも遠くへ歩いていった。


 そして、石やゴミ積み重なっていくつもの小さな山になっている場所に入っていった。


 蓼はノビルに気付くとひどく驚き、一瞬怯えた表情をした。蓼はすぐに落ち着いた表情を取り戻したが、その頭の中では沢山の取り繕う言葉を探しているのが分かった。


 小さな山のようになっているものがあった。


「削りかす……」「そうだよ」


 それは坑道での切削作業の時に出る削り屑だった。それは持ち出しを禁止されたものだった筈だった。蓼は山をひとつかみし、さらさらと落としながら、


「これを食べるんだ」と言った。


 蓼は山になっている削り屑をすくい取り、口に入れて噛んで飲み込んだ。


「まずい。土を食べているようだ」


 えずいて吐きそうになりながら、それでも削りかすを掴んでは飲み続ける蓼に対して、ノビルは不安になっていった。この人など放っておいてさっさと寮に帰った方がいいのではないかと思っていた。ノビルはほとんど帰りたいという気持ちになっていたが、気の弱さや友達という言葉や少しの好奇心や急に立ち去るのも抵抗がある等その他のあらゆる惰性に支配されてそこに突っ立っていた。


 蓼は地面に手をついて、激しく嘔吐した。紫色の吐瀉物が地面に爆ぜた。ノビルは蓼の顔を見て、その口元から出ている荒い呼吸の色を見て固まった。蓼が吐き出していた色は紫ではなく、赤だった。蓼は顔を両手で覆った。


 ノビルは驚きの目でそれを見つめていた。ノビルは赤など見たことがなく、ただ見たこともない鮮烈な色が目の前に、それも蓼の口から流れ出たというのが信じられないという表情をした。


 蓼が顔を上げると、その目があの時火を燃やしていた人のようにキラキラギラギラと輝いていた。ただし色は紫でなく、何色もの色が火花のようにぱちぱちと散っていた。


「ああ、すごい」蓼が異様に震える声で言った。


「わかるよ、すごいことになってる」


「ちがうんだ、ほら、あれ、分からないか」


そう言って蓼は遠くの山を指差した。何の変哲もない石だらけのただの紫の山が左右にぐったりと伸びているだけだった。


「……」


 ノビルはわけが分からず押し黙っていた。


「内面の変化だよ」


 蓼は興奮して、自分が感じている何かを伝えようとしていた。しかし何度か形にしようと試みたがそれを諦めたようだった。蓼はただいつも通り垂れ流すように喋り始めた。


「なぜ何もかも見えなくなってしまうんだろう。こんなに豊かな世界が広がっていて、人々はそれを共有できる方法を知っている、それができるのに! なのになぜ食べ続ける? 溺れ続ける?」


 ノビルはやはり帰ればよかったという気持ちが頭をかすめたが、蓼の瞳の色や、喋る度に出る赤みがかった煙、呼吸するたびに色づく肌の色に、ノビル自身困惑するほど魅せられていた。それはこれまで感じたことのない幸福感だった。一生このおかしなことを言いおかしな色に染まっていくこの人と、このままずっとおかしなままでいられればいいのにとノビルは思った。


 蓼の吐く息がかかると、自分の中に色がじんわりと広がっていくのが分かった。時間がまるで止まってしまって、無限のように感じる時があった。自分というものが一瞬どこかにいってしまうこともあった。それらを感じながら、蓼がどこまで行ってしまったのか、ノビルには少しずつ感じることができた。自分がその先に行きたくても行けない場所まで行ってしまっているのだと思った。すぐに正気に戻ってしまう自分とは違い、永遠の場所、一瞬で消えてしまう色ではなく、その全てが鮮やかに染まった場所にいるのだろうと思った。


 蓼はそのうち何も喋らなくなっていた。反対にノビルはショーケースの中のケーキをただ眺めているだけのような欲求不満に苛まれ、呻いていた。ノビルは声を上げることで少しでも自分の感覚を高めようとしていたが、やはりそれには決定的な効果はなく、寧ろ自分自身をより正気にさせてしまった。ノビルは残った削り屑を探して自分も食べようとしたが、分かったのは蓼はその殆どを食べ尽くしてしまったこと、それが土のように不味いこと、少しの量ではなんの効果もないこと、それだけだった。

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