第7話 母親は家に帰っても仕事をしていた。

ノビルの母親は家にいた。母親は家に帰っても仕事をしていた。母親は実際の勤務時間より多くの仕事をしていた。


「やらなくていいんじゃないかな、そんなの。だってもう、仕事する時間は終わっているじゃない」


 ノビルがそう言うと、母親はやらなければいけないことだからと言った。それに反対する言葉をノビルは言っていたが母親は遮って「やらないと、すっきりしないから。イライラするの」と言った。


 ノビルはそうやってやらなくてもいい仕事に手を出し、その結果自分に家事の負担がかかっていることに苛立ちを感じ、何か言おうとしたが、あの様子を見て、また自分が責められるだろうと思って止めた。あの人の勝手にすればいいと割り切ろうとして、自分の人生を無駄に消費している母親の姿にも怒りを感じていることが分かった。


 ノビルは母親は自分の人生の生き方を全く分かっていないと思った。全くどうでもいいことばかりに人生を消費しているように思えた。しかしそれはノビル自身もだった。本当に自分がやりたいこと、やらなければならないことに真剣に取り組むことができなかった。そして全くどうでもいいことに手を出すのだった。それらは要求されたことかもしれなかったが、ノビルの人生にとって大切なことではなかった。


 ノビルは家族にそういったことを伝えようとするのだが、それはこの家庭においては禁じられた行為であることが徐々に分かった。何かを変えようとすると、怒りを表そうとすると、途端にノビルは仕方のない人間になった。その時の家族達の反応は、笑いながら、目の奥で馬鹿にしていた。飛べない鳥をあざ笑うように。


 家族は誰も何も変わりたくはなかったのだ。苦しんでいながら。家族たちは苦しみを受け入れていた。この長く苦しい生活の中で家族達が培ったものは、何かを変える力ではなく、耐える力だった。我慢し続けることだった。だから家族達は人生の殆どを耐える力を養うことに費やしていた。家族達に必要とされたものは癒やし合うことだった。それが第一だった。家族は、人々がそう思うように、自分の生き方や物の考えを、全て他の人間が共有しているものだと思いこんでいた。だから無慈悲にもそれをノビルにも求めた。変わるのではなく我慢することを。それは親鳥が飛び方を教えるようなものだった。


 家族達は仕事が終わってもなお、その傷によってそれを治療する必要性があった。だから家族達は争うことなく、笑っていた。直接責め立てることはしなかった。あってもそれは冗談めかしたものだった。もしかしたらそれを幸せと呼ぶのかも知れなかった。別の家族はお互いに争うことで苦しみを解決しようとしたのだから。しかしノビルにはそれが受け入れ難かった。


 その中においてノビルが異質となったのは、ノビルはこの家族の元から暫く離れていたからだった。その間に形成された家族同士の規則について、家族自身が自然に身に付けていったものを、久し振りに家族の中に戻ってきたノビルは知らなかった。


 家族という一つの共同体においては、同じ価値観を共有させようとする圧力が生まれる。静かに眠りたい時に、隣で騒がれるのは嫌なものだ。それは一つの国のようなものだった。


 違う価値観を持ったもの同士が、どうやって調和するのか? ただ分かることは不寛容は寛容を許さないし、寛容は不寛容を許さない。異なる価値観を持ち続けることをよしとしようとする考えは、同じ価値観で統一しようという考えと調和することができない。離れなければ解決しないもののように思えた。


 そうでなければ力の大きなものが一方を飲み込んでしまう。肥らされた家畜は人間の漂白した真っ白な歯で噛み千切られて飲み込まれる。


 家畜は世界が変わることを夢見る。目が覚めたら悪臭のする小屋の中ではなく、澄んだ空気の青空の下にいることを想像する。そこはどこまで行っても障壁もなければ柵もない、自分たちを肥らせようとするものもいなければ、軽蔑するものもいない。喜んだ家畜は自由に駆け回るが、そこでいつも目が覚める。空想に浸るにはこの世界は悪臭が酷すぎた。


 人々が明晰であれば何かしらの解決方法はあったかもしれなかった。しかし人々は哀れにも看板を立てるようなことしか学習してこなかった。禁止にすれば、排除すれば、それでいいと思っていた。禁止を破るものはその時点で軽蔑されるべき人間になり、あとはそれを思い切り責め立てればいいからだった。これは非常に簡単な方法であり、疲れ切った明晰さもない人々が扱うには最善の方法だった。

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