最終話 悠久の中
僕は、十一体目のカナカナを倒したと同時に、意識を消失して倒れ、救急搬送された。病院で精密検査を受けたが、何一つ原因はわからず、その日は医師が止めるのを無視して、なんとか這うように帰った。しかし、その日から毎日三十九度を超える発熱と、嘔気と嘔吐と頭痛と腹痛と、身もだえする全身のむずむず感を認めて、倒れてから三日後、ついに自宅で過ごすことができなくなり、入院することとなった。
食事は一向に喉を通らず、点滴に繋がれた。発熱がひかないので抗生剤も投与されたが、まったく効果があがらず、段階的に抗生剤の強度は強くなっていった。それでもなお、僕の症状はよくならなかった。医師の表情は、困惑の色を隠せず、それが徐々にある種の諦観へと変化していくのを僕は感じた。
僕は、日がな一日横たわり、息を荒げて、宙を見つめた。鼻には酸素のカヌラが繋がれた。
「苦しい」
僕は小声で呻いた。
「たすけて、ツキ」
「無理です」
とツキは言った。
「泥夢の影響の、生命エネルギーの低下だから、医療でなんとかなるわけがありません」
そんなことをしている間にも、暗がりの中から、蠢くカナカナが這い出てきた。
僕は、それを視認すると同時に、常に手元に置いてある泥夢を手に取った。泥夢は、即座に巨大な槍へと変形し、光速で伸びて一瞬でカナカナを突き刺した。カナカナは、半身を別の空間に浸しながら、溶けていった。
「今のは、タイプ78。今まで出た中でも、最強クラスのカナカナです。それを、一瞬で。この世界に出きってしまう前に。すごい、凄すぎます。強すぎます」
ツキは興奮したように言った。
「あなたは、間違いなく、歴代で最強のサクリファです」
その時、僕は唐突に胸痛に襲われ、その場でベッドから崩れ落ちた。点滴が抜けて、前腕から血が噴き出た。巡回の看護師が、慌てて当直医を呼びに行った。
「いよいよですね」
耳元で、ツキが囁いた。
「次のカナカナとの対決が、あなたの最後です。わたしは、並行して、次の候補者を探さなくてはなりません」
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胸痛で倒れてから一か月間は、僕は朦朧とした時を過ごした。投与される酸素量はどんどん増していって、痛みは常にあったが、それがどこの痛みなのかほとんど自覚できなくなっていた。そして、指を動かすこともままならず、ただベッドに横たわっていた。夜に、窓に映る自分の顔が、るい痩していくのがわかった。入院中の母の、骨ばった顔にそっくりになっていた。
「今晩、最後のカナカナがきます。こんな時、何を思います?」
僕は黙っていた。いや、口を動かすのも億劫だったのだ。
「みな、歴代のサクリファも、この世界から去る時は、さまざまですね。どういう心象なのでしょうね」
「……会いたい」
僕は声を絞り出した。
「え?」
「……庭子に会いたい」
僕の心には、この期に及んで、庭子の顔が浮かんでいた。
「庭子って、これのことですか」
すると、ツキの顔が、ゆっくりとその造形を変え、身長も伸びていって、庭子そのものとなった。
僕は、言葉が出なかった。
「わたくしが、姿形を変えていたんですよ。庭子なる人物は、この世界にいません。わたくしが、あなたを立派なサクリファにするために、泥夢の栄養たる人間の苦渋を与えるために、庭子なる人物に変わって接近し、そして去りました」
そこには、懐かしい、庭子の顔があった。しかしその後に、すぐにまた、ツキへと戻っていった。
「わたくしを恨みますか?」
僕は自分の感情を洞察した。
「もう、恨むこともない。そうなんだ、と思っただけ。酷いやつだなとは思うけど、恨むほどの気力もない。ただ……」
「ただ?」
「自分はいったい、なんなんだろう、って。僕は、いったい、なんのために……」
「わたくしも含めて、世界は無情でフラットで、時々は優しさを垣間見せるけど、それでもほとんどは『生活の苦労』で満ちていて。その中で、あなたは、何を思います?世界は、あなたを守りませんよ。あなたが、日夜世界のために戦っていることに、気づきもしないし、ねぎらいもない。そしてあなたは、もはや戦っても闘わなくても、死は約束されている。それでも、この世界を、守りますか?」
ツキの背後から、蠢く黒いものが、見え始めた。
「……守る」
と僕はこたえた。
「どうしてでしょう。本当に、皆目わかりませんね」
「……ツキがいるから」
「わたくしが?わたくしが何か関係でも?」
「君は……冷酷で……傍にいて……優しくて……冷たくて……世界そのものみたいだから。今……目の前にいる……存在感のあるものは……結局ツキしかいないから。僕がここで戦うことを放棄して……ツキが面倒な思いをするのなら……」
「死の淵で、生きるよすがを求めて、とりあえず目の前にあるわたくしに縋る、ということですね」
「なんとでもいうがいいよ……。それを、生きることを最後まで続ける理由にするよ……。それは僕の勝手だろ……。いろいろ他人に気を遣って生きてきたんだ……。最後くらい、気を遣わずに言ってやる……。ツキのために、闘うことにした」
「くだらない感傷で調停たるものを汚すな」
ツキが叫んだ。
「知ったことか」
僕は、吐き捨てるように言った。
ツキの背後から、蠢くカナカナが、無数の触手を伸ばしてきた。剣に変化した泥夢が、長く伸び、そして分裂し、カナカナの上に降り注ぐ。
カナカナは鈍重に見えて機敏に動き、降り注ぐ剣の雨をかいくぐる。
そして、目前に迫ってきたカナカナを目にした時、痩せた僕の身体は、泥夢に導かれるでなく能動的に動き、寸ででカナカナの触手をかわしながら、そのコアに、僕は泥夢でなく、自分のか細い手を突き刺した。手は、ずぶずぶとカナカナの身体に食い込み、カナカナは呻いた。突き刺した手から、生命反応が消える感触がした。
それは同時に、自分の生命反応もまた、ということだった。
しかしその瞬間に、ツキが僕の背後に回り、僕を抱きしめた。
「目をつむってください」
僕は言われるままに、目をつむった。
閉眼の暗がりの中で、僕は体が無重力に踊ることを感じた。ツキが、僕を抱きかかえて、どこかよくわからないところを、縦横無尽に飛んでいるのだ。
「開いていいですよ」
僕は、静かに目を開けた。眩しくて何度も瞬きをしたが、やがて馴化して、開けていられるようになった。
そこは、何もない空間だった。白だか虹色だか、まだら模様だか、よくわからない配色の何かの流れが、目の前にあった。
「ここは、どこ?」
「狭間ですよ。空間の、狭間」
ふと気が付くと、僕の身体は痛みから解放され、あれだけるい痩していた体には、健康だった時と同様に、肉がついていた。
「死んだの、僕は?」
「いいえ、生きています。いえ……もとから、生きているんだか死んでいるんだか、わからない人生でしたっけ」
そう言って、ツキは笑った。
「逃げたんですよ、わたくしもね。仕事にうんざりしていたので。いい機会だと思って。調停の仕事は降りました。一人じゃ暇なので、隆明さんも道連れです」
「でも……君は大丈夫なの?」
「大丈夫じゃないですよ。重大な規約違反ですから。わたくしは、殺されるでしょうね。追ってはやがてきます」
「逃げよう」
「逃げる?どこに?」
ツキは笑った。
「安心してくださいよ。あなたがた人間と、わたくしたち調停者は、感ずる時間の感覚が違うんです。わたくしのとっての、おそらく追手がくるまでのひと時の間。それは、あなた方人間にとっては、数百年にもおよびます。ここで隠れている間に、隆明さんは死んじゃいますよ」
「……でも」
ツキはそっと僕の手を握った。ひやりと、冷たくで、でも表情は柔和だった。
「あなたの命が尽きるまでの間、ここでゆっくり、語らいましょうよ。くだらないこと、面白いこと、残酷なこと、悩んでること、いろいろと」
「でも……カナカナは……」
「次の調停者がもう動いてますよ。わたくしの代わりなんて、いくらでもいますからね。だからここで、語らいながら、世界がどうなっていくのか、しばし眺めましょう。生き急ぎ過ぎなんですよ、みんなね。悠久の中に身を浸して、たわいもないことを、ただ話して、消えていく。そういうのも、あってもいいんじゃないでしょうか」
ツキが、その場で腰を下ろした。僕もその隣に、腰を下ろした。
「なんでもいいから何か、喋ってください」
「そうだなあ……」
何も浮かばなかった。
「隆明って名前なんだけど、由来はさ、僕の父親が、全共闘の世代で哲学かぶれでね――」
「うわあ、すごくつまらなそうな話。続きをどうぞ」
ツキが、にこやかに言った。
満月の闘争 @ryumei
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