第7話 儚さ

 自分の生命の限界を知ってから、僕はとても無気力になった。

 生活の中のあらゆることが億劫になり、布団のうえでぼんやりする時間が増えた。

 生きるとは、どういうことなのか。青臭く、思春期にとうに過ぎ去った問いだとおもっていたが、今まさに切実に僕の頭の中を巡った。そのあいだ、仕事にまったく行く気にならず、無断欠勤が続いた。職場から何回か着信があったようだが、僕は折り返すことなく放置していた。

 思案のすえに、ひとつ浮かんだ言葉は、『儚さ』であった。

「儚いね」

 僕は布団に寝そべりながら、そう呟いた。

「今気が付いたんですか?」

 ツキが意外そうに言った。

「あらゆるものは、儚い。本当に、それにつきる気がする」

「その感覚は、世界認識としては、わりとまっとうだと思いますよ。現代社会では、うまいこと隠蔽されているものですから。一年後に生きている前提に立たなければ、正気を維持して生きることすら難しいので」

「僕は……」

 と僕はつぶやいて、ツキを見た。ツキは、僕の枕元で、優しく微笑んでいた。

「僕は、どう生きればいい……」

「それは、解答のない問いですよ。死んで消滅するまで、その問いは続きます。その問いを持ちながら、どういう振る舞いをするかに、その人間の価値観が現れますね。いろいろ見てはきましたが、はて、隆明さんは、どうされるのでしょうね」

 何日かの無断欠勤を経て、ある日僕は会社に向かった。そして、会社の棟の中に入りエレベーターに乗り、ラボラトリー7の部屋の前に立った。

 カードキーをかざしてドアを開けると、そこにはいつも通り、何十匹のマウスの小屋が、並べられていた。僕はそのうちのひとつの箱を覗き込んだ。アンフェタミンのポンプに繋がれたマウスが、せかせかと歩き回っていた。

 ふと自分が、何のためにこんなことをやっていたのだろうと思った。僕がやらなくても誰かがやる。いくらでも替えはきく。あとは自分がこの仕事を選択する動機づけだ。統合失調症の患者、自分の母を過去から現在まで苦しめているこの疾患を、少しでもよくする薬をつくりたい。

 でも、はたと考えた。今まで、僕はその動機付けでもってこの仕事を選び、それ故に課長から疎まれながらも今の研究に従事したいと思っていたが、本当にそうだったのだろうか。こうやって、死というものが前よりも近くなって、いろんなことの意味性を失って、やや冷めたフラットな視点で考えると、順序が逆な気がした。僕は、とにかく生きるため、生きて生活していくため、仕事を継続するために、自身のヒストリーを後付して、『こういった背景があるから、自分はこの仕事をする』と思い込もうとしていたのではなかろうか。

 生きるため、という感覚がなくなった今、僕は完全に仕事に興味を失っていた。目の前にある、大量のアンフェタミンマウスを前にして、愕然としてしまった。

「かわいそう」

 隣で、ツキが呟いた。

「隆明さんの、人生の意味性の問いから回避するために、後付のライフヒストリーに根拠を持たすために、犠牲になっている小さな生命たち、かわいそう。強制的にアンフェタミンを注入されて、その小さな心臓に鞭打って、哀れにも短命で去っていくマウスかわいそう」

 ツキは、その目に涙を浮かべ、両手で顔を覆って、しばし嗚咽した。

 僕は、いたたまれない気持ちになった。

「あ、でも」

 とツキは言って顔を上げた。

「でも、命ってそういうものですよね。ある面では唯一無二で、ある面では砂漠のなかの一粒の砂に等しい。ひとつひとつが宇宙であり、同時にひとつひとつが無でもある。あ、なんだか、かわいそうとも思わなくなりました」

 一瞬で、ツキの涙は乾ききっていた。ツキは切り替えが早かった。

 僕は、マウスたちのポンプをひとつひとつ外していった。そしてマウスを、大きな段ボールに一匹ずつ入れていった。合わせて二十二匹のマウスの入った段ボールを、蓋をしてテープで緩く固定し、カートの上に載せた。そしてカートを引いて部屋から出て、エレベーターに乗って降りていき、会社の棟から外に出た。街中の視線を浴びつつも、僕はカートを押して、十分ほど歩いた。都市の中にある、緑地につくと、僕は段ボールを傾けて、マウスを外に出した。マウスは、戸惑うように周囲を見つつ、ちょろちょろと足早に芝の上を駆けて、方々に歩き去って行った。

「何がしたかったんですか?」

 ツキが言った。

「何もしたくなくなったんだ」

「実験用に飼育されたマウスなんだから、外の世界じゃ、箱の中にいるよりもっと早く死んじゃうんじゃないですか」

「でも、外の世界で駆けてるほうがいいんじゃないかな。箱の中だけが世界と思っているよりも」

「それこそ隆明さんのエゴに聞こえますけどねえ。マウスが、何をどう知覚しているかなんて、わからないじゃないですか。自由を与えてる美徳と思いきや、さんざんアンフェタミン漬けにしておいて、急に餌のない外に放り出して早死にさせてるともとれますよ」

「そうだけど……でも、結局はエゴで動くしかないじゃないか。自分以外の存在が、何を考えているかなんか、わからない」

「そういえば、他者のことを考えていたら、人生なんてあっという間に終わる、って言ったサクリファが、かつていましたね。そのサクリファは、本当にその後、あっという間に死んじゃいましたけど。三か月後くらいだったかな」

 僕はツキの、透き通った瞳を見た。

「君は、目の前でサクリファが息絶える時、何を思うの?」

「なにも」

 ツキは肩をすくめた。

「そういう事実を認識するだけです。あと、次どうしようかなと思案します」

「君自身は、君の命をどう思うの?」

「自分にも他人にも興味はありません」

「自分の『消滅』については、怖くないわけじゃない、と言っていたことがあったろ」

「怖くないことはないですよ。でも、あまり想像できないんですよね。想像しないように、作られているのかもしれません、わたくしたち空間調停者は。いろいろ想像してしまうのが、あなた方人間の特徴ですよね。だから苦労するのでしょうけど。抽象的な物言いですが、想像する方が存在として立体的ですね。わたくしたち想像しないものは、平面的ですね、なんとなく。輪郭がないからこそ、わたくしたちは存在として存続できる、無責任な無敵者でいられる。人間は、輪郭があって、それゆえに儚いですね。おそらくわたくしたちも、輪郭を帯びようとしたときが、消滅の時なのかもしれないですね」


 数日後に、僕は課長に呼び出された。課長は、椅子に深く座り、その前に僕は立っていた。課長の背後には、いつも寄り添っている秘書が、いつも通りに立っていた。

 課長は、ひとつ深く息を吐いて、白髪が散乱しているその頭をかいた。

「おい」

 課長が秘書に言った。

「少し席外してくれ」

「かしこまりました」

 秘書が、極端に伸びた背筋をそのままに、ヒールの音を立てて部屋を後にした。

「なんだって、研究用のマウスを全部逃がしやがった」

「自由にしてやりたかったんです」

「飼育したマウスを放したって、すぐ死ぬだけだ。餌の取り方もわかりゃしねえ」

「わかっています」

「真面目にきく。どっか病院にでも行ってんのか?調子悪くしたのか?」

「どこの病院にも行っていないです。調子は、よくはないですが、とりたてて悪くもないです」

「今、お上が尻拭いに奔走しているぞ。うちだけじゃない、共同でやってる研究だからな。全部おしゃかになる。まあ、あの研究から手を引けと言ったのは、俺ではあるが……。だが、こんな馬鹿げたちゃぶ台返しは望んじゃいない」

「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

「責任はどう取るつもりだ?」

 僕は、ポケットから退職願を出して、課長の前に置いた。

「やっぱり」

 課長は顔をしかめた。

「俺へのあてつけか?こないだの飲みの席での恨みか?こんな突飛なことする前に、パワハラされたとか、どっかに告発すりゃいいだろ。ほどほどの報復が俺のとこにきて、お前は損はしない。現場を見てる証人は、何人かいるんだからな」

「あの時のことは、べつに関係ありません」

「じゃあ、なんなんだよ、この行動は」

「先のことが、いろいろと、どうでもよくなってしまったんです。だから、仕事をする意味がなくなりました」

「仕事をしないでどうやって生きていくんだ?」

「数か月は食いつなげると思いますが、その先は生きていけるかわかりません」

「わけわかんねえわ」

 課長は首を振って、頭を抱えた。

「あらためて、申し訳ございませんでした。それでは、失礼いたします」

 僕は、頭を下げ、課長に背を向けて、ドアに向かって歩き出した。

「おい」

 背後から課長の声が聞こえたので、僕は足を止めた。

「やけくそにしてもひどすぎる。人生に捨て鉢になってるのも見て取れる。関係ないとは言うが、豹変のタイミングがあの飲み会なんだから、なんらか因果関係はあるんだろうと思わざるを得ない。俺の罪悪感を刺激するのが作戦なのだとしたら、それは大成功だと言っておこう。こんなに後味の悪い退職願いは初めてだ。お前が嫌いだと、俺はたしかに言った。だが、どうでもいいとは言っていない。その目を濁らせて、俺の領域まで堕ちてこいと言ったんだ。その意味が伝わらなかったのが残念だ。お前は、目を濁らせることを拒否して、この空虚な箱から出ようとしている。ずるいな」

 僕は黙っていた。

「社会復帰する気があるなら、俺宛てにメールをよこせ。うちの会社じゃなくても、どこかは紹介できるかもしれねえ。少しは伝手がある。やけくそでどこかで野垂れ死んで、これ以上俺を不快にさせたりするなよ。生きてなんぼなんだ。俺とて、こんな人生まっぴらだと思いながら、することもねえから今日も生きてんだ。しょうがなく、消極的に、しょんぼりとな」

「ありがとうございます。覚えておきます」

 そして、僕は部屋を後にした。

「あれだけ嫌味なこと言っておいて、どうして今日は、引き止めともとれるようなことを言うんでしょうねえ。わたくしには皆目理解ができません」

 家に帰る電車の中で、ツキが言った。

「極端な悪人も、極端な善人もいないってことだよ」

「それが人間なんですねえ」

 ツキは無表情にうなずいた。

「ところで、もうすぐ命もなくなるわけだから、何かしておきたいってことないんですか?」

 僕はしばし思案した。窓の向こうに、夕暮れが反射して見えた。

「特にない。命が長くないとわかって、やりたくないことはいくつか思い浮かぶけど、やりたいことは思い浮かばない」

「心底つまらない人生ですね」

 ツキの辛辣な言葉にも、もう僕は感情を揺さぶられなくなっていた。心が、深海魚みたいに、低いところで漂っていた。


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