第2話 カナカナ 2
「君は……だれ?」
「わたくしは、何者でもないのですが。そうですねえ……」
少女が空を見上げた。満月が明るく輝いていた。
「月が綺麗な夜なので、ツキと呼んでくださって結構です」
「ツキ?」
「呼称などどうでもいいことです。あなたには、わたくしがどのように見えます?」
「どうって……」
僕は、あらためて、少女の頭のてっぺんから足先までざっと眺めた。
「空の服を着て、眼鏡をしていて、リボンを付けていて……」
「なるほど、あなたには、わたくしがそのように見えているのですね」
「どういう意味?」
「人それぞれ、わたくしの存在の見え方が違うのです。過去のサクリファ、あ、サクリファというのは、泥夢に選ばれし世界を守る守護者のことをいうのですが。過去のサクリファには、わたくしのことが、四角い立方体に見えたり、初老の男性に見えたり、コオロギみたいな虫に見えたりしたこともありました。それぞれ、個別性をもったやり方で、わたくしを認識するのです。ちなみに、わたくしは言葉を喋っているように見えているでしょうが、正確には何も喋ってはおりません。思念でもって、あなたの脳に語りかけているのです。わたくしの姿も、サクリファ以外には認識できないようになっております」
僕は、急に足の力が抜けて、その場にへたりこんで、首を振った。
「意味が、わからないよ」
「意味など特にありません」
気が付くと、右手と同化していたあの黒い剣は、また元の黒い石に姿を戻していた。
僕は、石を手にのせて、それを眺めた。
「泥夢は、平時はただの石ころ。しかし、カナカナが迫り来る時、鋭い刃にその姿を変え、持つ者に強い力を与えます」
「カナカナって?」
「先ほど倒した、あの黒いぐにゃぐにゃした生き物のことです。時にこの次元に侵襲して、人間を殺します。時々社会の中からいなくなってしまう人間がいると思いますが、一部はこのカナカナのせいです」
僕は、もう一度首を振った。そして、黒い石を鞄にしまい、震える足にめいっぱいの力をこめて、立ち上がった。
「帰る」
「賢明なご判断です。夜は寒いですからね」
僕は、夜道を、とぼとぼと歩いた。ふと夜空を見上げると、先ほどと同様に、月が明るく光っていた。どうも最近、やけに月が明るいなと思った。
「月の光が、最近やけに明るく感じます」
僕は、ツキと名乗るその少女の言葉を聞いて、ぎょっとした。
「なんの前触れでしょうね。もうすぐ世界は終わるのでしょうか」
「かもね」
僕は、動揺を押し隠しながら、憮然とこたえた。
「そうですね。世界がどうなろうと、べつにどうでもいいですよね。わたくしは月が好きですよ。自らの力でなく、太陽からの借り物の光で輝くところが好きなんです。月は狂気の象徴でもありますね。誰かからの借り物の光を、自分のものだと思って光っていると、だんだん狂ってくるんでしょうね」
数分歩いたところで、僕は自分の顔に、先の黒い生き物の、返り血を浴びたことを思い出した。街灯のもとで、そんな姿を誰かに見られたら、面倒なことになると思った。僕は慌てて、顔を伏せ気味にして、近くのコンビニエンスストアに小走りで入った。そしてまっすぐにトイレに歩いて行って中に入り、鏡の前で自分の顔を確認した。せめて、顔についた血を、紙で拭おうとしたのだ。
しかし、だ。僕の顔には、血など一滴たりともついてはいなかった。顔だけでなく、白いシャツにも、オリーブ色のチノパンにも、どこにも血はついていなかった。
「カナカナは死ぬと、その存在もまた消滅するのです。カナカナの生命の終焉と同時に、血もまた消えました」
背後から声が聞こえたので、僕は驚いた。
「トイレにまでついてくるな」
「このトイレは男女兼用です」
「そういう問題じゃない」
「泥夢に選ばれし者の行くところ、どこへでもついていくのがわたくしの使命。たとえそれが、宇宙の彼方でも」
「消えるなんて、あり得ない。そもそも血なんて浴びてなかったのかもしれない。やけになって、だいぶコーヒーを飲み過ぎた。カフェイン過剰摂取の幻視かもしれない」
「否認ですか。まあ、しかたがないでしょうね。でも現実ですよ。死ぬと同時に存在が消滅することもあります。人間もそうじゃないですか」
「人間は、死んだって死体が残る。生きていた記憶が誰かに残る」
「時間の問題ですよね。焼かれるか埋められるかして、土とほぼ同化して、年月が経ってその人間が生きていた記憶をこの世の誰もが持たなくなった時、それは存在していると言えるのでしょうか」
「……」
「それは広義の消滅です。もっとも、生きているうちに、ほとんど消滅しているような存在もありますが。たとえば、あなたのように……」
ツキが、にこりと笑った。
僕は、憤怒と落胆で、瞬間的に感情がたぎった。
「冗談です。図星とか思わないでください。あなたのことを、認知している人間もいると思いますよ。よく存じませんけども。それよりここから早く出ませんか。このトイレは狭いし臭います」
僕は、コンビニエンスストアから出て、自分の家に向かって、歩道を歩いた。歩道は、街灯によって点々と照らされていた。いつもと同じ道なのに、まるで全く知らない街を歩いているような、そんな錯覚に時に襲われた。
僕は、自分の住まいの、築三十四年の木造アパートにたどり着いた。アパートが見えた時には、新鮮な喜びと安堵があった。日中の、あの出来事が、もうずいぶんと前のことのように思えた。
ポケットから鍵を取りだし、鍵穴に挿入して反時計回りに回した。開けると同時に、僕は体をすべり込ませ、靴を脱いで我が家の床に足を乗せた。朝焦がしてしまった、目玉焼きの臭いがかすかに残っていた。
ふと背後に存在の気配を感じた。振り向くと、そこにはまだツキがいた。
「お邪魔します」
「やめてくれ。ここは僕の家だ」
「借りているだけでしょう」
「そういう問題じゃない」
「泥夢に選ばれし者の……」
「もう、そんな話は一切聞きたくないんだ」
僕は、ツキの肩を持って、玄関のドアから押し出そうとした。月は半身が外に出たところで、その足の靴をドアに挟み入れ、閉められないようにした。
「まあ、少しくらい、いいじゃないですか。ご迷惑にはなりませんよ」
「いやだ。出て行ってくれ」
「それなら、ここでわたくしは、きゃあと大声で叫びますよ。近隣全般に聞こえる声で叫びますよ。誰か警察を、と叫びますよ。今の状況とは逆の、見知らぬ男に家に引き入れられそうになっている少女を演じますよ。どちらが信用されるでしょうか」
僕は、怖くなり、ツキを押す力を弱めた。ツキは、にこりと笑って、ドアを思い切り開いて玄関に入り、ドアが閉まると同時に手を後ろにして鍵をかけた。
「独り身が性に合っているのでしょうが、まあ、慣れますよ」
「何が欲しい?」
「べつに、何も欲しくはありません」
「僕から何か、搾取しようとしているのか?」
ツキは、今までで一番大きな声で笑った。
「あなたに、搾取するほどの何かがあるのでしょうか。わたくしはただ、あなたの傍で、あなたの行く末がどうなるか、見てみたいだけです。好奇心です」
「親父の残した借金を返している。稼ぎの大半はそこに費やされている。自分一人で生きていくのに手いっぱいだ」
「ご心配なく。わたくし、食事も排泄も一切しませんので。そういう存在なので」
「そういう存在?」
僕は、眉をひそめた。
「食事も排泄もしないだなんて、それこそ生き物じゃない。君こそ、本当は存在しないんじゃないのか」
「ははあ、そうきますか。では、手を出してみてください」
僕は右の手を前に出した。
するとツキは、僕の手をそっと握った。ツキの手の指は、すらりとして白かった。と思いきや、急に尖った親指の爪をたてて、僕の手の甲に思い切り押し付けた。
「痛い」
僕は、普通に言ってしまった。
「この痛みが、本当は、ないとでも?」
僕は手を振りほどこうとしたが、ものすごい力で握られていて、微動だにしなかった。
「痛い、痛い痛い」
ツキはふっと力を弱め、今度は僕の手を優しく包み込むように握った。そして、手の甲に唇をつけた。瞬間的に、脈拍が上昇するのがわかった。
「それとも、この口唇の感触が、本当はないとでも?」
僕は、目を閉じて、深くため息をついた。頭が混乱した。さっきから混乱してばかりだった。
「諦めてください」
ツキは、いかにも同情しているという、演技的な表情でもって、小声で言った。
「泥夢を持つ者の運命なのです」
「……わかったよ」
僕は、ツキに背を向けて、和室の電気をつけ、畳の上に鞄を置いた。右手の甲には、爪の跡がくっきりと残っていた。ふと、カレンダーを見た。今日は日曜日だった。日曜が、もうすぐ終わる。こんなことをしていて、終わってしまう。明日から、また仕事が始まる。明日のモーニングカンファレンスの準備は、まだできていない。
僕は、鞄から黒い石を取り出して、テーブルの上に置いた。まるで、宇宙の果てを思わせる黒さだった。あの時、この石は、形状を変えて僕の手に巻き付き、鋭い剣のような物になった。僕は石に触れてみた。そこには変質するような要素は感じられないような、硬質な感触があった。
「泥夢が形を変えるのは、カナカナが近くにいるときだけです」
ツキが、僕の隣に、腰を下ろして言った。
僕は頭をかいた。
「泥夢とか、カナカナとか、さっきからずっとよくわからない言葉がたくさん出てくるんだけど、どういうことか説明してほしい」
「そうですね。説明責任はありますものね。でもお腹すいてないですか?食べながら聞いてもいいですよ」
僕は、たしかに激しい空腹だった。僕は冷蔵庫を開けて、余っている野菜を適当に切って、卵とひき肉と一緒に炒め、チャーハンを作った。そしてテーブルの上に置いて、スプーンですくって口の中に放り込んだ。
「手抜きだけど手慣れてますねえ。おいしそう」
「べつに、チャーハンなんて、誰が作っても大してかわらないよ」
「わたくし、食事という物を食べたことがないのですけど、食べるってどういう感じがするものなんですか?」
僕は聞かれて、あらためて考えた。
「食べたい物を口に入れて、噛んで、味わって、飲み込んで、胃の中に入れる」
「味わうって、どういうことですか?」
「舌で、甘味とか、苦みとか、辛味とか、そういう感覚を知覚する。おいしい時もあれば、おいしくない時もある」
「そのチャーハンは、おいしいですか?」
「べつに……おいしいとかおいしくないとか、これに関してはあまり考えないな。食べないといけないから、栄養だから、食べる。一人で、自分のためだけにつくる時、おいしい物を、なんてあまり考えない。僕はね」
「なんだか味気ない」
僕は、スプーンを持った手を止める。
「まあ……ね。もう少し、食というものを、楽しめる人間になれたらよかったな。そのほうが、健全だと思うから」
「健全でありたかった?」
「そりゃまあ、もう少し健全でありたいと思うことはある」
「健全って、なんでしょう」
僕はしばし考える。
「……自分の生理的感覚なり、周囲の花鳥風月なり、ほどほどに覚知することができて、ほどほどの生活行動を無難にまっとうすることができる、ことかな。そういうものを……獲得することができなかったみたいだ、僕は」
そこまで言って、自分はいったい何を話しているのかと思った。
「話を戻したい。今日あったこと、どういうことか、説明をしてほしい」
「覚悟はありますか?」
「覚悟?」
「何かを知る時は、覚悟が必要だと思うので。知るということは、それなりに危険も伴うものですよ。一般論として」
「どういう危険?」
「それは知った時に、知ることです」
「……わかったよ。覚悟はある。話してくれ」
「それでは」
もったいぶった感じで、ツキはすっくと立ちあがった。
「対照関係論、というものをご存知ですか?」
「まったく知らない」
「たとえば、Aというものがあったとして、その場合必ずA´というものが存在します。BにはB´が存在します。どこに存在するかはわからないけれど、それは必ず存在します。あらゆることを省いて、ものすごくざっくりと大雑把に結論だけ伝えていますよ。これが、十八世紀に英国の化学者・物理学者で、貴族でもあったオーベリー・アベンギッシュが唱えた、対照関係論です。当時は見向きもされませんでしたが、およそ一世紀半後に、トポロジーとエイリー・羽川数式によって、数学的に証明されます。ただこれは、『数式として解かれ、現実現象としても論理的には起こりうる』というのにとどまります。観測することは不可能だからです。ただ、この天才たちの着想は、すべてが正解というものではなかったのですが、実在する現実現象の近似ではあったのです。大半の人間に覚知されることなく、はるか以前より、それこそ人類史が始まったころから、対照関係論によって提示されたことに近い現象が起きていたのです。それはつまり、この宇宙がAとしたら、A´の宇宙。´宇宙、と呼称しましょうか。´宇宙より、人間に近似の知的生命体が生まれました」
「その、知的生命体って、ひょっとして……」
「そうです。カナカナです。ま、わたくしが勝手につけた名前なんですけどね」
「あれで人間に近似と言えるの?」
「複数の宇宙、という次元でとらえれば、極めて近似しています。意思があり、それに基づいて動きますからね。その時点で稀です」
「そいつが、いったいなんだって、この地球に」
「そこなんですよ」
ツキが人差し指をたてた。
「いわゆる、対照性の破れ、というやつが、発生してしまったのです。カナカナは、その破れから、対照宇宙への『移乗』する能力があったのです。´宇宙における、突然変異ですね。´宇宙での生命体はその時は滅びの間際にいたので、生き延びるためにそんな進化を遂げたのかもしれません。『移乗』し、この宇宙に来たカナカナは、まだ誕生したばかりの、ホモ・サピエンスをたくさん殺してしまいました」
「なんでまた、いきなり殺すの」
「わかりません。理由なんて、特にないんじゃないんですか。あなたたち人間だって、理由なく殺したりするじゃないですか」
「まあ、そういう人たちもいるけども……」
「そういう人たちもいる、ではなくて、たぶん誰だって基本的にはそうですよ。業縁がなければ、理由があっても人ひとり殺せないけれども、業縁があれば、理由なく何万人と殺すことができる。それが人間です。世界史の教科書を一読したら、猿でもわかりますよ。平時は無難で無害な人民が、いざ戦争となると、女性に乱暴しながら仲間に笑顔で手を振ったりするなんてのが、しょっちゅうでしたから。わたくし、この目でサピエンス史を見てきていますので」
僕は、暗澹たる気持ちになった。
「それで、この宇宙に来たカナカナは、その後どうなったの?」
「わたくしたち、AとA´の間に存在する、境界空間の者たちは、それをよしとはしませんでした。境界空間は、空間規律の調停のために、自分たちは存在するのだと、そう思っております。AがA自体の自壊で滅びるならべつに問題ないのですが、A´からの侵襲で滅びるのはいわゆる空間規律に反します。ですが、我々は直接に影響を及ぼすことができません。影みたいなものなのですので。そこで、Aに対し、A´に対抗しうる、力と知恵を与えました。それが、可変接触性亜空間質量解体物質、通称『泥夢』です。泥夢を使うホモ・サピエンスを、わたくしは勝手にサクリファと呼称しているんですが、初代のサクリファによって、最初に侵襲してきたカナカナは消滅させました」
「人類は救われたんだ」
「そうですね。でも、事はそれだけでは終わりませんでした。なぜか、満月の夜になると、対照性の破れが起こりやすくなるのです。因果関係はわかりません。およそひと月に一度、満月毎に、カナカナはこの宇宙にやってきました。その都度、歴代のサクリファによって、カナカナを消滅させてきました。この宇宙の人類は、カナカナに滅ぼされずにすんでいるのは、あなた方サクリファが、とても献身的に頑張ってくれてきたからです。あなた方が負けない限り、対照関係は保たれます。対照関係を保つことが、わたくしたち空間調停の役目なので」
「君たちは、神様かなにか?」
「神とは、人間のいくつか主流の宗教で用いられる、万能の象徴存在のことですか」
「そう」
「であれば、違いますね。わたくしたちは、あくまで‘空間規律を守りたいと、勝手に思い込んで実行する存在’です。形を変えて、あらゆる空間宇宙に漂っています」
「ふうん。でも、そのサクリファってやつも、いつまでも戦っていられるわけではないでしょ」
「そりゃあ、人間はいつか死ぬ存在ですからね」
「じゃあ、どうするの?」
「継承です。あるサクリファが絶命する直前に、サクリファの資格を剥奪し、べつのサクリファになりうる者を探します。サクリファは、カナカナ相手に泥夢で戦っている分には最強なんですけども、普段はただの人間ですからね。病気になったり、事故で死んだり、戦争で死んだり餓死で死んだりします。だからこの、剥奪するタイミングが難しいのです。満月寸前にサクリファが死んだりして、次の継承者がいない状態でカナカナが侵襲してきたら、それこそ大ピンチです。人類史で、時々原因不明の大量失踪者が出るのも、だいたいこの継承ミスで、サクリファ空白期にカナカナが侵襲してきて、多数の人間が殺されるからです」
僕は、あらためて、『泥夢』なる黒い石を手に持ってみた。
「基本的には、常に持ち歩いてくださいね」
「でも、襲ってくるのは満月の時だけだろ」
「持ち歩く習慣がないと、いざ満月って時にも、忘れちゃうものですよ。泥夢なしじゃ、あのスーツのおじさんみたいに、すぐ殺されます」
「スーツのおじさん……」
僕は、非現実の白昼夢の中にいて、しばし忘れていたが、そういえば、先ほど、目の前で、人が死んだのだ。
「あのおじさんは、どうなるの?」
「カナカナに殺された人間は、存在消滅します。泥夢で殺されたカナカナと同様に」
「行方不明、ということになるの?」
「まあ、そうでしょうね。探す家族がいるのかもわかりませんが」
僕は、うつむいた。
「もう少し早く、自分が戦っていれば……」
「継承初回はそんなもんですよ」
「でも、死なずにすんだ可能性はあるよね」
「まあ、あるでしょうね。でも、たらればの話は考えるだけ無駄ですよ。命が返ってくるわけではないのですから」
「そうだけども……」
「うじうじ考えるくらいなら、やめておいたほうがいいですよ。一度しか戦っていない、今なら撤回可能です。べつの資格者を探すだけなので。満月毎に戦いがあるのですから、いちいち考え込まれたらこちらも困るんです。励ますの、面倒くさいので」
「やるよ」
「やるんですか?」
「それで、助かる命があるんならね」
「一個の命とか、そんな次元じゃないですよ。世界です。戦いに負けて、対照の破れが広がったら、大量のカナカナがやってきて、それこそ人類が滅亡するかもしれないんですから。あなたは世界を守るのです。満月の夜に、世界を守るために一人戦うのです。それがサクリファです」
「世界を守る、か」
「あらためて聞きますけど、やりますか?」
「……やるよ」
「ここで承諾したら、もう撤回はできないですけど」
「まあ、やりがいはありそうだから。実感、わかないけど」
「わかりました。では、あなたを、第三一一五代サクリファに任命します」
「うん」
「儀式が必要です。泥夢を握った手の、甲をこちらに向けてください」
僕は、言われるままに、泥夢を手に握り、その手を差し出した。
ツキは、僕の前に跪いて、差し出した手の甲に、そっと唇をつけた。やはり今回も、僕の脈拍は急激に上昇した。
「これで、完了です。ちなみに、世界を守ることについてですけど」
「うん」
「あなたは、守りたいと思うほど、この世界が好きなんですか?」
僕はそう言われて、少し思案した。
「生きていて、世界って嫌だなとか思うことってないですか」
日中の、庭子に別れを告げられた時のことが想起された。それはまさに、心臓がえぐられるような、絶望的な体験だった。
「厭世的な気分になることは、度々あるけどね。でも総じて、世界には存続してほしいなとは思っている」
「たとえ虐げられたとしても?」
「虐げる?べつに、そこまで尊重されているとは思わないけど、特別虐げられているとも思っていないよ」
「仮定の話ですよ。戦いは孤独です。あなたは世界を守るために戦う。でも誰にも感謝はされません。誰も知らないから。そんなさなか、日常の気分の毛羽立ち、生活の苦労、どこかでふと投げかけられる陰性の感情、楽し気な周囲の者たち、己の孤立、ついていない日、ダメの上塗りかもと思うような日、いったいなんのために生きているのかもわからない日、そんな時でも、世界のために、戦えますか?」
僕は黙った。ツキは、その大きな瞳で、僕をじっと見据えた。
「……なるべく、コンディションを保つようにするさ」
「コンディションを保つための個人の努力など、世間の針の前では無力ですね。刺されて悶え、恨むのが常です」
「そういうこともあるかもしれないけど。でも、なるべく感情と行動は分離するように、普段から心掛けてはいるんだよ」
「ふうん。でもそもそも、あなたが感じて認識しているこの世界って、守る価値ありますか?」
僕はツキの顔を見た。ツキは、仏みたいに穏やかな顔で、微笑んでいた。
「とまあ、こういう問いに常に晒されるのが、サクリファなのです。大変ですね」
ツキが、僕の前に、その折れそうなくらいに細くて白い手を差し出してきた。
「今日から、わたくしたちは、パートナーです。よろしくお願いします」
僕は気分が滅入っていて、握手をする気になれなかったので、黙って首を振った。
「まあ、そうですよね。重たい話をしましたものね。ご飯、食べたらどうですか。冷めますよ」
僕は、再びスプーンを手に取り、チャーハンを口に運んだ。ツキの言う通り、すっかり冷めきっていた。
「テレビつけていいですか?暇なんで」
「いいよ」
ツキは、テレビのリモコンを操作して電源を入れた。途端に、バラエティ番組の音声が、部屋に充満した。
「退屈な男と話していると、退屈しちゃうんですよね。テレビくらいつけとかないと、精神衛生が保たれません。退屈って侮れない毒がありますからね」
僕は、その言葉で憤怒のスイッチが入ってしまい、スプーンを持つ手を止めて、ツキをにらんだ。
「なーんて、冗談ですよ。こんなこと言われても、コンディションを保てるように頑張ってください。ちなみにわたくし、本音を言えば、今回のサクリファは前回のより、いくぶん面白そうだなと思っていますよ」
そしてツキは、ふふと笑い、視線をテレビに戻し、画面の向こうのひな壇芸人が話をする様を見て、顔をあげて大笑いした。
「ぜーんぜん、面白くないですね、この番組」
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