満月の闘争

@ryumei

第1話  カナカナ

 なぜ、自分がここにいるのか、よくわからなくなる時がある。存在理由とか、そんな大袈裟なものじゃないけれど、数秒前の自分も不確かに感じて、なんとなく不安になるのだ。

「こんちは」

 振り返ると、パートナーの庭子がいた。黒髪をぱつんと切り揃え、瞳は不思議な透明度で、背は僕の肩くらい、青い花柄のワンピースを着ている。

「待った?」

「いや、待ってない」

 実のところ、約束の時間を一時間過ぎていた。

「このくらいの時間じゃ、待ったのうちに入らないよ。僕は、いろいろなものを何年も待ち続けているからさ」

「例えば隕石とか?」

「そうだね。一九九九年に、ついに何もおこらなかったから、そういうのを今でも待ってる」

「時代錯誤じゃない」

「そうかもね」

「それに、象徴としての隕石らしきものは、もうとっくに地球に落ちていて、世界は今まさに瓦解しつつあるんじゃないの、ていうのが、わたしの見解なんだけど」

「間違ってないと思う」

 彼女は言いかけた言葉を止めて、周囲を見渡した。辺り一帯、人だらけである。

「少し散歩して、それから昼ごはんを食べましょう。今日はちょっと、重大発表もあるし」

「重大発表?」

 僕は聞き返した。

「それなに?」

「今は秘密」

 彼女は、いたずらっぽく笑った。

 それから僕たちは、人の波の中を、あてどなく歩いた。彼女の歩くペースはやたらと早くなったり遅くなったりした。僕はそれに合わせて、自分の歩幅を微調整した。

「東京は人が多すぎるわ」

「本当にね」

「なんでこんなに多いのかしら」

「刺激と仕事が多いからだよ」

「若人の夢を吸って増幅してる」

「でも、だからこそエネルギーがあるんじゃないの」

「みんな、トーキョーなる幻想を追っているのよ。今は見えない、きらきらした何か。だから集まってくる」

「君はどこ出身なんだっけ」

「東京」

 と彼女は言った。

「地方で生まれたものは東京を目指す。東京で生まれたものは、ニューヨークを目指す。ニューヨークで生まれたものは、宇宙を目指す。根幹は同じ」

「ここではないどこか」

「そう、ここではないどこか。自由が外にあると思っているのね。真の自由は、内面にしかないと思うのだけど」

「みながそう、達観できるものでもないよ」

「あなたはどこ出身だっけ?」

「千葉県。ベッドタウンの団地住まい。都内勤務で日中は人が少なくなる。中心から逸れた、周縁の者としての自覚を植え付けられちゃうんだ」

「中心なんてないわよ。ただの空洞。生ける者すべて、何かの周縁者だわ」

「東洋的発想だね」

「そりゃまあ、まごうことなき東洋人だから」

 三十分は歩き回っただろうか。彼女は急にぴたりと足を止めて、

「ここでコーヒーでも飲みましょ」

 と言って、チェーンの喫茶店の看板を指さした。

 僕たちは喫茶店の中に入り、窓際の席に腰を下ろした。彼女はアメリカンコーヒーを、僕はブレンドコーヒーを頼んだ。

「仕事はどう?」

 僕は聞いてみた。

「んー、まあ」

 彼女は、マニキュアの塗られた自分の爪を眺めながら、つまらなそうに答えた。彼女は製薬会社の開発部門の研究員をしていた。

「入社したての頃はね、本気で人を助けたい、大変な病気を治せる薬を作りたい、って思っていたわ。でも人を人として見ていたら、この仕事はできないんだと、すぐにわかったわ。だから、わたしはもう、人を想定して開発なんてしていない。市場分析部門の持ってくる資料を眺めながら、細胞のチャネルのターゲットになりうる物質を、あれこれ塩基をくっつけたり取ったりしながら作ろうとしてるだけ」

「大変なんだね」

「そう聞こえた?まあ、自分で選んだ仕事だからね。あなたもだろうけど」

「ところで、重大発表っていうのは?」

「あ、そうそう」

 彼女は、コーヒーカップをソーサーの上に置いた。

「あなたと別れたいの」

 一瞬、僕は何を言われているのか、よくわからなかった。店の中の、他の客の話し声などの雑音が、やけに大きく聞こえた。

「別れるっていうのは……僕と恋人同士ではなくなるということ?」

「そう」

 僕は想定していなかった唐突な言葉に、ひどく狼狽して混乱したが、意識して呼吸をゆっくりと整えて、その狼狽を悟られまいとした。

「その……それは、もう僕のことが好きでなくなった、ということかな」

「理由は複数あるけど、それもそのうちのひとつね」

「まあ、好きでなくなったという人に、好きでいてくれなんていうのは無理だから、どうしようもないんだろうけど……。差支えなければ、好きでなくなった理由なりきっかけを聞きたい」

「人を好きになることに理屈なんてないのと同じように、好きでなくなることにもたいした理屈なんてないわよ」

 僕は、実際のところ混乱してあまりものを考えられなくなっていたが、考えているふりをして沈黙し、コーヒーをひとくち飲んだ。

「そうそう、これあげる」

 そう言って、彼女は自分の鞄から小さなある物体を取り出して、僕の目の前にことんと置いた。

 それは、黒曜石みたいな、真っ黒い石だった。大きさは、乳児の握りこぶしくらいだった。

「なにこれ?」

「それを捨てるのもよし、持って帰るのもよし。好きに扱っていいわ」

 僕は、その黒い石を親指と人差し指でつまんで、三百六十度回転させてみた。

「じゃ、さよなら」

 彼女はそう言うと、振り返ることなく、やや速足で店の出口に向かって歩いて行った。扉が閉まると、彼女の背中も見えなくなった。

 僕は石をテーブルの上に置いて、椅子の背に深くもたれ、閉眼して、しばし時が過ぎるのを待った。

 つらさや喪失感も、時間が解決するものだということを知っている年齢ではあった。時間が自分を救ってくれるのを待つほかない。

 目を開け、腕時計を見ると、彼女が出て行ってから一時間ほどが経っていた。店は混み始めていた。僕は席を立った。テーブルの上の、石が目に入った。数秒思案して、僕はその石を鞄の中に入れて持ち帰った。


 電車に揺られ、自宅のある駅に戻った。すぐには自宅に帰る気になれず、僕は本屋をいくつもはしごして、いくつもの雑誌を立ち読みした。立ち読みに飽きると、厳選したうえで三冊本を買い、ファミリーレストランに入った。ドリンクバーでもって無限にコーヒーを飲みながら、買った本を読みだした。昭和のデカダンスで有名な作家の小説だった。芸術至上主義者だ。人間としては非道いものだったろうが、その創作物は現代人も救う。

 気が付くと、日が暮れていた。僕はカフェインの摂り過ぎで、やや脈拍が促迫し、少し気持ち悪くなっていた。会計を済ませて店を出て、それでも自宅に戻る気になれず、僕は川に向かって歩きだした。

 川は、東京と千葉県を隔てていた。僕は、川辺の道を、ゆっくりと歩いた。川は夜空を反射して黒かった。辺りには人は見当たらない。遠くに、時折橋を渡る電車の音が響くが、それ以外は静かなものだった。

 夜空には、満月が浮かんでいた。満月は、煌々と光っていた。太陽光の反射による

借り物の光。

 少しだけ、違和を感じた。

 月って、こんなに明るかったっけ?

 僕は川辺の芝に腰を下ろして、鞄の中から、彼女から渡された石を取り出した。夜の闇の中で、黒い石も溶け込んでその色調はよくわからなかった。『捨てるのもよし』という彼女の言葉が頭に浮かんだ。見れば彼女を思い出しそうだから、ここで川に放り投げたほうが精神衛生上よさそうな気がしたが、僕にはそれができなかった。しばし、その黒い石を握って、月を眺めていた。


「おめでとうございます」


 背後から声が聞こえた気がした。驚いて振り向いたが、そこには誰もいなかった。

 向こうのほうから、やや歩行が不安定な、スーツを来た男性が歩いてきた。少し酩酊しているのだろうか。僕は絡まれたら面倒と思って、視線をそらし顔を背けた。


「ほら、見てください。カナカナがやってきますよ。空間が裂けて、カナカナがやってきます」

 

 また背後から声が聞こえたので、僕は振り向いた。振り向いた先の空間に、奇妙な一本線が、空間に浮かんでいるのが見えた。一本線が、やがてその幅を拡大させ、そこから、何やら黒い物体が、にゅるりと這い出してきた。現代美術の彫刻家が作るような、奇妙な形をしていた。高さは二メートルくらいだろうか。生き物のようにも見えたが、どこが頭だかもわからなかった。物体が出きると、空間の裂け目がゆっくりと閉じた。

 思考制止とはこういうことを言うのだろう。いったい何が起きているのかわからなかった。カフェインの摂り過ぎで、幻視を見ているのかと思った。カフェイン中毒の患者も見た経験がある。

 黒い物体が、何やら触手みたいなものを、そのぐにゃぐにゃした体から伸ばした。そしてその触手は、鋭い形に変形したと思ったその瞬間に、スーツを着た男性の背中を突き刺した。貫通し、男性の胸から血液に塗れた触手が見えた。男性の体は宙に浮き、数秒間ぶるぶると震えたあと、すぐに動かなくなった。触手は、男性をぽいと放り投げた。僕の前に、血まみれの、先ほどまで男性であったその身体が、転がった。


「あらあら、不運ですこと。でも元来、死とはそういうものです。理不尽に唐突にやってきます」


 黒い物体が、こちらをにらんだ。目がどこかもわからないが、なんとなく睨まれている気がしたのだ。そして、少しずつ僕のほうに近づいてきた。満月はこんな時でも明るく光り、そして周囲は助けを求められる人の気配はなかった。僕は、足の力が抜け、立つことが出来なかった。


「泥夢が解放されるかどうか……。あなたの運命はそれで決まりますね。されなければ、あなたの命も終わりです」

 

 ふと気が付くと、手に持っていた黒い石が、どろどろに溶けて、自分の手にまとわりついていた。溶けてタールみたいになったその溶石は、やがて僕の右手からするすると伸びていき、一本の先の尖った剣のような形となって、再び固まった。


「やった。泥夢が形を変えました。あなたを認めた証拠です。泥夢はカナカナを殺める唯一の道具、同時にカナカナを呼び寄せる不吉の道具」


 黒い物体が、こちらに視線を向けた。どこに眼があるかもわからないのに、なんとなくこちらに注意を向けたことが察されたのだ。そして、その干からびた巨大なミミズみたいな触手の先を、僕に向けた。

 全身に悪寒が走り、口元が震え、頭の中は真っ白で、呼吸の仕方も忘れた。寒気に覆われ固まる全身の中で、先の尖った黒い剣のようなもの、少し前まで黒い石だったはずのそれに包まれた右手だけが、暖かかった。剣のようなものは、僕の右手の中で静かに拍動していた。


「カナカナに、狙われておりますよ。触手が高速で伸びてきます。避けるか受けるかしなければ、先ほどのスーツの男性と同様に即死です」


 触手がその先端を自分に向け、勢いよく飛び出してきた。物凄い早さであるはずなのに、僕には触手がこちらに向かってくるところを、視覚でとらえることができた。僕は恐怖と驚愕でほとんど体を硬直させていたが、右手の温もりに促される感じを得て、右足に神経を集中させて、なんとか横っ飛びでごろりと転がった。

 その瞬間、触手が僕が元居た場所を突き刺し、コンクリートがこそげて吹っ飛んだ。

 間一髪で避けたのである。


「泥夢に選ばれし者は、その感覚および身体能力を数倍にまで引き上げることができます。もちろん、いくつか代償はあるのですけど……」


 僕は、額に噴き出た汗を拭い、よろよろと起き上がった。

 理不尽な、信じえない状況の中で、ひとつ理解できることがある。

 何もしなければ、僕はあの、黒い物体に殺されてしまうということだ。

 反射的に、死にたくはないという、本能が首をもたげた。

 物体が、再度こちらに注意を向けた。ぐにゃりと複数の触手を持ち上げ、宙でゆらゆらと揺らした。


「そのカナカナは、見たところタイプ2。初戦のあなたでも、勇気を持って泥夢を一振りすれば、余裕をもって勝つことができます」


 何本もの宿主が、一斉にこちらにむかって伸びてきた。僕は、反射的に右手を振り上げた。すると、僕の右手とほぼ同化している黒い剣が、触手を数本切った。まるで、剣が勝手に動いているように感じた。切った触手から紫の血が噴出し、僕の顔を濡らした。生暖かく、泥臭い生命の臭いがした。黒い物体は、聞いたこともないような、おそらくは何か特殊な波長の音を発した。


「苦しんでます苦しんでます。鋭い刃物で身を切られるのは、痛いですものね」


 耳元から聴こえるその声は、笑っていた。

 

「さあ、とどめを刺してあげたほうがよいのではないでしょうか。長く苦しませてしまうことになります。七本の触手を切られて出血していては、もう長く生きることはできませんから」


 僕は、何も考えることができなかったが、何かに誘導されているかのように、その足を動かして、呻く黒い物体に近づいた。そして、その顔かもしれない部分に向かって、黒い剣を振り下ろした。右手に、生き物を切断する感触が走った。生命を断ち切る感触が走った。

 黒い物体から聴こえる奇妙な音が、さらにそのボリュームを増長させ、身をよじらせた。のたりのたりと、川辺を二回転ほど転がり、やがて動かなくなった。

 動きを止めた黒い物体は、その存在が風化するかのように、徐々に空間に溶けだし色彩が薄くなり、やがて消えてしまった。

 ぱちぱちと、耳元から拍手の音が聞こえた。

 音のする方向に振り向くと、そこには、長い髪の毛を空色のリボンでまとめ、小さな丸眼鏡をかけた、背丈が自分の肩くらいの少女が立っていた。少女はリボンと同様の空色の一色のワンピースを見に纏い、黒い靴を履いていた。そして、恐ろしく端正な顔立ちだった。

「お見事。初戦を勝利で飾りました。もっとも、負けていたらこの世界はもう、なかったのですが」

「君は……だれ?」

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