第3話 鶴見隆明

 僕は、午前七時に、その自動扉をくぐった。そして、棟内の自動販売機で缶コーヒーを二つ買い、エレベーターに乗った。階数を示す数字は、どんどんその値を増していった。

 ちんと音がして、重力が変化し、しかる後にエレベーターは止まった。僕は、十七階で降りた。

 男性の更衣室に入り、自分のロッカーの鍵を開けた。357が自分のロッカーの番号だった。ロッカーの中には、上下の白衣と、同じく白いサンダルが入っている。僕は服を脱いで、それに着替えた。

「始業は九時なのに、ずいぶんと早く出社するのですね」

 ツキは僕の背後から言った。ツキは、自宅でも常に僕の近くに居て離れることがないので、更衣室に一緒に入ってくることにも、違和感がなくなってしまった。

「早く始めないと、終わらないんだよ」

「真面目なことですね」

「真面目ってわけじゃない。やらなきゃいけないから、やるだけだよ。合間に抜くところは抜いているさ」

「そうですか。まあ、真面目になったら終わりですものね」

「終わり?終わりって、何が?」

「真面目になって取り組むべきことなど、この世にはほとんどないということです」

「そうかな。自分に嘘をつかず、真面目に生きていられるなら、それは尊重されることだと思うけど」

「そういう人間も稀にいるのでしょうが、べつに尊重する必要はないと思いますよ」

「いや、尊重する。尊重することにしているんだ、個人的に」

「モラリストなんですね」

「そうじゃない。生活するための便宜だよ。自分はそうなれないけれど、そういうことができる人がいたとして、そういう人を尊重するという価値観を持っていたら、実社会では生活するうえで、楽なんだよ」

「べつに、モラルを持つことを恥じることではないですよ。『便宜』と言い放つことをクールと考えているなら、そのほうが七億倍ださいです」

 僕は、ロッカーをばたんと閉めて、鍵をかけた。

「君は、いったい何が言いたい?」

「べつに、何も言いたいことなどございません」

 ツキが僕の白衣に視線を落とした。

「ボタン、ずれてますよ」

 見ると、たしかにボタンがひとつずつずれていた。会話して上の空で、こういうミスをする。そしてその会話内容は、時間の浪費と言うほかないようなものだ。

 すべてのボタンをはずし、とめなおそうとすると、ツキが歩み寄り、上からボタンを一つずつとめてくれた。

「理詰めで自分を納得させて、抑圧ししまいこむ。そういう習性が身についているのですね。あなたの手前勝手な恥ずべきモラルは、あなたの周辺の出来事の多くのことを許すことができなそう。それを抑圧し、心的内圧は高まっていく。いつか暴発しなければいいですけど。人類の未来もかかっていますし。ねえ、抑圧だるまの、隆明さん」

「モラルなんて信じていやしないよ。そういうものに変に縛られた時点で、この世界で生きていくことはとても苦しくなることは知っている。親父を見ているからね」

「あらら、ファミリーヒストリーなるものがあるのですか。ぜひ聞きたいものですね」

「これから仕事なんだよ」

 僕はそう言って、更衣室を後にした。

「そういえばそうでしたね」

 ツキが後ろから追ってきた。


 僕はラボラトリー7のドアを、カードキーをかざして開錠し、中に入った。そこには、コの字型に置かれた机のうえに、ラットの飼育箱がきれいに陳列されていた。それぞれの飼育箱には、一匹ずつのラットが入っていた。

 僕は、まずは一通りラットを見て回って、すべて生存していることを確認した。そして、小袋に分けられたラットの餌を棚から取り出し、それぞれの飼育箱に置いていった。

 ラットたちは、それぞれ、小さなシリンジポンプを背負っていた。シリンジには黒い線で目盛りが描かれていた。シリンジの中に入っているのは、アンフェタミンである。シリンジポンプによって、少しずつアンフェタミンがラットに注がれるようになっているのだ。

「このネズミたちって、いったいなんでしたっけ?」

「統合失調症モデルラット」

「そうそう、そうでした」

「昨日も一昨日も、説明したよ。聞かれたから」

「わたくし、興味のないことはすぐ忘れてしまうんです」

 ツキは、ぐるりと部屋を見回して、飼育箱をのぞき込んだ。

「ネズミさあん」

 ツキは、飼育箱の柵のあいだから、指を突っ込んでラットの頭をなでた。

「噛みませんか?」

「ラットはおとなしいから、噛まないよ」

「それにしても、これじゃあ、統合失調症モデルラットというよりも、アンフェタミン中毒モデルラット、なんじゃないですか」

「正確に言えばそうだよ。でも、側坐核っていうところからの、ドパミン過剰放出ってところは、統合失調症も覚せい剤精神病も、同じだから」

「同じなのはそこだけともいえるのでしょうか」

「……まあ、ね。統合失調症は、ドパミン過剰放出だけじゃなくて、もっと複雑な脳の形態的、機能的障害だっていうのは、明らかだからね。このやり方でつくるモデルラットは不十分だよ。でもしょうがない。創薬するのに、いきなり人間で実験するわけにはいかない。現状の科学の限界かな」

「統合失調症って、なんでしたっけ?」

「それも、昨日説明したんだけど」

「覚えてないんです」

「誰かから見られているとか、盗聴されているとか、そういう被害妄想が出たり、ないはずの声が聞こえたりする。幻聴ね。これらは、陽性症状っていうんだけど。本来ないはずのものを、あると知覚する病状をいうんだ。でも、統合失調症の本態は、陽性症状じゃない。ほかにも、慢性に経過していると、なんとなく感情の抑揚がなくなったり、活気が乏しくなったり、複雑に考えることが難しくなったりする。陰性症状っていうんだ。こちらのほうが、生活能力をダイレクトに落としてしまう。薬では、陽性症状には効果がでやすいけれど、陰性症状には効果が乏しい」

「隆明さんは、統合失調症の薬を開発しようとしているんですね」

「うん。本当は、精神科医になりたかったんだけど、前期試験で医学部に落ちたから。後期試験で、薬学部に入った。浪人は経済的に無理だったから。医者にはなれなかったけど、薬の開発に携わることで、やりたいことを実現できるかもと思ってね」

「ふうん。堀りがいのありそうな話ですが、今は控えておきます。お仕事中ですものね」

 僕は、それぞれのラットのアンフェタミンの流量の調整をした。そして、ひとつひとつの飼育箱を開いて、レポート用紙に行動記録を書いていった。ラットは、ナンバー114から132までいた。

 隣の部屋に移って、僕はその日とった行動記録をもとに、それぞれのラットの評価尺度を記載して計算し、パソコンに打ち込んでいった。

「おす」

 扉が開いて、僕と同じ白衣をまとった、白髪混じりの大柄の男性が入ってきた。プロジェクトリーダーの、柄谷さんだった。

「おはようございます」

「順調か?」

「いや、まだ……。今の検体には、明後日に、試薬投与なので」

「試薬って、DX-1855?」

「はい」

「ナンバー25までの結果は?解析終わってるだろ」

「……そうですね、もう終わってます。25までの時点では、有意差ないです」

「そうか。あれ、塩基の位置がよくないかもって思ってるんだ。もし無理そうなら、今度、ベンゼン環よりに配置してみるか」

「はい」

「今のうちに並行して、受容体結合と情報伝達のシミュレーションはやっておいてくれ。上に提示しなきゃいけないから。まあ、多少盛ってもいいからさ」

「はい」

 仕事が増えた。

「じゃあ、俺、下のラボいるから。なんかあったら電話くれ」

 そして、柄谷さんは、去って行った。

 僕は、昼食を食べずに午後四時までぶっつづけで作業した。飼育室に何度も足を運び、行動記録を記載し、複数の評価尺度をどんどんつけていくのである。かつては記録補助の秘書が一人つけられていたが、予算削減でいなくなった。

 僕は、今日つけた評価尺度の用紙の束を抱えて、三つ隣の席に座っている、同期の上野の前に立った。

「これ、今日の分、よろしく」

 僕は、上野の机のうえに、どんと束を置いた。上野はいまいましげに、束をぱらぱらとめくった。

「またかあ……。きりないよな。今のところ、いい結果でないし」

 上野は、プロジェクトの統計解析部門だった。

「報告しても、淡白なメールが返ってくるばかりだ。この研究、うまくいく気がしない」

「最後までやってみないと、わからないよ」

「まあな。でも、リーダーだって、朝ちょっと顔見せるくらいで、全然こないじゃん。十五階のラボでやってる、抗うつ薬開発にご執心だ。はっきりいって、期待されていないぜ」

「わかってる。でも、予算が出るうちは、やるよ。べつに自分たちだけでやっているわけじゃない。他の研究機関も共同でやっているし。ためしていけば、いつかは当たるかもしれない」

「ギャンブルだよな」

「創薬なんて、ギャンブルみたいなものじゃないか。わかりきったことだよ」

「ギャンブルなら当たる確率をあげないといけない。それと、リターンが時間と金のコストに見合ったものか、考えないといけない。これ、どっちもやばそう」

「……」

「共同研究のことだけど、O大学は手を引いたぜ。見限られたんだよ」

「まあ、分が悪いのはわかるけど……。でも、まだトライする価値のある、配列はあるし。雇ってるチャネルハンターが、ナチュラルの情報を送ってくるから。それから、有用な配列が見つかるかもしれないし」

「そりゃ、いつかは見つかる可能性はあるけど、何しろ時間がなあ……」

 上野は天井を見上げてため息をつき、首を振り、でも思い直したように。こちらを見た。

「まあでも、やるよ。それが仕事だからな」

「頼む」

 そして、僕は自分の机に戻った。

 僕はその後、棟から徒歩五分のコンビニエンスストアでおにぎりを五個買って、それを頬張りながら、リーダーに言われたシミュレーションの作成にとりかかった。しかし、午後十一時には力尽きて、更衣室で着替え、棟を後にした。背にはどっしりと、疲労の塊がのしかかっていた。

「お疲れ様です」

 ツキが言った。

「まったくね」

「大変そうな世界ですね」

「べつに。好きで選んだ仕事だから」

「猫背が、猫の背よりも、丸くなっておりますよ」

「うん」

 夜空には、左半分が欠けた月がのぼっていた。

「今日は上弦の月ですね」

「うん」

「カナカナがくるまで、あと七日」

 僕は、仕事用の鞄の中にいつでも泥夢を忍ばせ、寝るときにも鞄を枕元に置いていた。非現実感とともに、いつも不安が渦を巻いていた。

「僕が負けたら、どうなるの?」

「少なくとも数万人は死にますね。次の有資格者を見つけるまでに時間が必要なので。対照の破れの大きさ次第では、人類滅亡です」

 ツキの言葉からは、死ぬ、滅亡、という言葉がよく出てくる。もう、麻痺して驚かなくなっていた。

「カナカナと戦うにあたって、何をすれば、強くなれるの」

「修行をするしかないですね。何事もそうでしょう」

「何をすることが修行なの?剣を振ればいいの?体を鍛えればいいの?」

「あははははは」

 ツキは乾いた笑い声をあげた。

「そんなことして、なんの意味があるんですか」

「じゃあ、どうすればいいんだよ」

「生きる修行をすることですね。生きて生活して、生活の苦労を経験する修行です。辛苦こそが強くなるバネ、その人間の、広義の様々な辛苦でもって、泥夢は大きく、鋭くなり、持ち主の感覚も身体能力も跳ね上がっていきます」

「ずいぶん抽象的だけど」

「安心してください。隆明さんの場合、普通に生活していればいいんですよ。普通に生活していても、広義の辛苦がありそうなので、日一日と強くなっていきますよ。その成果は、次の満月の晩にわかります」

「生活の苦労……」

 と僕は、つぶやいてみた。

「べつに、すごい苦労をしてるってわけでもないけどね。もっと、深刻にお金に困っている人とかもいるし」

「金銭だけでははかれないでしょう。はたから見て、幸福の条件がそろっているように見えても、幸福感がないなんてのはざらです。ないものねだりというやつですね。空虚、渇望、不満足。それを含めてこその、生活の苦労です。だから、‘広義の’とついているんですよ。隆明さんは、条件を満たしていますよ」

「うれしくもないよ」

「そりゃあ、うれしくもないでしょうね」

「その昔、柳田國男って学者がいてね。生活の苦労、って言葉を使っていたな。知ってる?」

「知りません。誰ですか、それ」

「明治時代の、民族学者で官僚だった人だよ。生活の苦労があったから、狂人にならなくてすんだんだって」

「ふうん。でも、生活の苦労があっても、狂う時は狂いますよ」

「まあ……そうか」



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