第8話 ……胸、揉んでおけばよかった
今まで感じた事のない恐怖、生命の危機を感じる。いつの間にか息が上がって、ぜぇぜぇと肩で大きく呼吸をしている。
頭の中が真っ白になる。視界が歪む。これは現実なのか。そうならば逃避したい。
一刻も早く目を閉じて、回れ右で来た道へ戻りたかったが体が全く言う事を聞かない。人間型の銅像みたいに一切動くことができない。体と心が乖離している。
心にあるのは恐怖のみ。ぐちゃぐちゃな気持ちになっておしっこが漏れそうになる。
逃げなきゃ。唯一その言葉だけが自分の中ではっきりと出てきた。
……しかし、どこへ逃げればいい。
同時に、逃げていいのかという疑問が出てくる。
自分が逃げてしまえば、視線の先にいるコイツはどうなるのか。ただ単純に消えるのか。追いかけてくるのか。それとも他の誰かの所に行くのではないか。
色々な想定が浮かぶ。もし今からバイト先、ニコニコ満腹弁当の人達に頼ったら、そっちに危害が発生しないだろうか。多くの人が巻き込まれてしまっていいのか。
その瞬間、自分自身の凄惨な結末よりも他の誰かへこの恐怖が移る未来を想像すると胸がひどく締め付けられた。同時に揺るぎない決意ができた。
……あんな良い人たちを巻き込むなんてできないし、させない。さっきまで一切動かなかった銅像の手足たちが動くようになってきた。
そして、一度目をつぶり、思いを巡らせた時、桜ノ宮の顔が浮かんだ。
「……胸、揉んでおけばよかった」
そうして、ポケットに入っていたスマホを操作してまたポケットに戻した。直後、短くスマホが振動した。
覚悟は決まった。後はやりきるだけ。
一度目標をしっかりと視線の先に入れる。恐らくまだあの存在はこちらに気がついていない。ただひたすらにアパートの前に立ち空を見上げている。
音が出ないように両足を叩いて気合を入れた。行けると確信した。
直後、弓から放たれた矢のように走り出した。
隠れもしないで自分のアパート目掛けて全力疾走している。流石にこの足音では相手にすぐに気がつかれるだろう。それは分かっていて、でもこの道を選んだ。
視界の先に居る人物はまだ空を見上げていてこちらに気がついていないようだ。できればそのままでいてくれ。強く願う。
しかし、アパート直前で全力疾走の足音に気がつき、ソレはこちらに気がついた。
相手がどう動いてくるか分からない。一度タックルしてみようかと考えたが、そういう行動が効く相手かどうかもわからない。それに一瞬でも触れてしまえばこっちは終わりかもしれない。
だから人物の横を駆け抜けアパートに入り102号室、つまり自分の部屋に入るという選択肢を選んだ。それが最善だ。
こちらに気がつき、近寄ってくるソレ。何か口から音を発しているような気がするが恐怖で何も頭に入ってこない。一瞬でも早く家に戻りたいという願いだけが頭の中を占める。
そうして全速力でなんとかソレの横を通り過ぎ、アパート共有の玄関を開けて入った。勢いのあまり、入ってすぐ左に曲がらないといけないところを曲がり切れず壁に激突する。それでも止まるわけにはいかず、102号室を目指し足を動かし続けた。
ほんの数メートル先の部屋の扉がはるか遠くに感じる。走っているのに進んでいない気すらしてくる。
だが、ちゃんと進んでいた。そして、とうとう部屋の前に着いた。
ポケットの中に準備していた部屋の鍵を取り出そうとする。しかしポケットの中で引っかかっているのかスッと出てこない。それで気持ちが焦る。
焦る手でなんとかポケットのひっかかりを外し、部屋の鍵を開ける。
今まで何百回と鍵を開けているはずなのに、こんなに鍵が開くことを良かったと思ったことはなかった。
扉を開き、それと同時に体を投げ入れるように部屋へと入れた。
それと間髪入れずに慌てて扉をしめて鍵をかけた。静かにという気持ちに反して、これでもかという程扉を強く閉じたので、バンッという大きな音が響いた。
謎の達成感が身体の中を駆け回る。
しかし、恐怖の夜は終わっていない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます