第5話:子供を育てる難しさ ⑤

今は他人に対して興味を持たない人が増えているように感じることも以前に比べると増えてきた。


 そのため、おかしいと思っても“面倒なことになるから関わらない”もしくは“面倒なことには関わらない”など問題に巻き込まれないように自己防衛に走ることや“自分が何をしても意味がない”と考える人が多い。


 そのような心理が定着する事で、子供たちも取捨選択をする際の判断基準として採用してしまう可能性が高くなる。


 もちろん、この逆も然りだが2つの整合性を取らせることが子供たちに“多様性の理解”や“社会奉仕の在り方”などの判断を迫ってしまう要因にも繋がりかねないのだ。


 今は人に手を差し伸べることに対してすぐに出来る人とそうではない人との心理的状況として“周囲からの視線”や“偽善者”などの罵詈雑言、その行為がメディアなどに取り上げられることで不特定多数から“調子に乗るな”や“子どもだから感謝状だけど、大人なら逮捕状”など本人に対して誹謗中傷をする人も現れる。


 そうなると、子供たちがそのような行為をすることに対して躊躇する可能性や仮に実行したとしても感謝状は受け取るが、メディアなどの取材を受けず、後日コメントなど個人を特定されないような形式にするなど人を助けることや奉仕することに対して新たな形を社会が容認していく必要があると思う。


 今は“情報社会”ということもあり、すぐに個人の行為やプライバシーに関わる情報がネット上やメディア上で不特定多数に拡散・認知されてしまう可能性がある。


 そのため、今は個人の意思が尊重されているとしても子どもの場合は親などの大人に決定権が集中しているため、仮に取材などを子ども側が拒否したとしても大人側が容認するとそのまま実行する可能性が高くなる。


 最近は減ったが、メディアなどに取り上げられる際に実名を掲載していることや制服などの正装で取材を受けているにもかかわらず、校章や名札などの映像処理がされていないことも多かった。


 このように子供たちに自分の行動・行為に対して意思決定権を持たせるのではなく、大人が自分の価値観で判断し、大人の考え方で子どもをコントロールしているという状態では子供たちが意見を言ったとしても十分に反映されない、子供たちに諦めの心を生ませてしまうなど大人に対して忠誠や従順することに対して違和感を覚える事が増えてしまうと思う。


 今は個人の行為を“過剰に美化”するのではなく、その行為に対してきちんと評価し、相手の希望を尊重しながら発信して行く事が大事だと思う。


 特に子供たち(小学生~高校生)の場合は学校でのいじめや地域での意図しない情報漏洩などに繋がっていく可能性があるため、本人にとっては“困っている人を助けたい”という気持ちでやったことでこのような結果に繋がってしまうと、“こういうことになるならもうやりたくない”というネガティブな感情を生んでしまうだけではなく、子どもの自主性や良心を失いかねない事態になる。


 子どもを育てるというのは“大人の価値観を子どもに押しつける”のではなく、“お互いの価値観を尊重し、お互いに必要な事を学ぶ”という姿勢が大事だと思う。


 これは大人の方が経験豊富だが、その経験をそのまま教えてしまうと子どもによっては萎縮してしまうことや強く記憶に残ることでその事が起きた時に強いストレスを感じる子供もいる。


 子どもは1人では育たない。


 だからこそ、成長過程で必要な事を子どもの精神発達に合わせて教えていくことで子どもにとっても見えない怖さから解放され、過剰なストレスを感じることもなくなる。


 “子どもを育てる”ことは“社会を育てる”・“未来を創る”と言うことと同意義なのかもしれない。

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