第11話 ティリオンを名乗る
出発の日、ティリオンは夜明けとともに自宅を出た。
連日マスコミが殺到し、『超有名経営コンサルタントのティリオン・Kがこんなボロアパートに住んでいた』と報じられた。が、それももう昔の話。ある著名人の下半身スキャンダルが報じられると、マスコミはそちらの方へ食指を示したため、もう誰も彼のことを追う者はいない。
ティリオンは大きなリュックを背負い、戸締りをすると、鍵を新聞受けの中に投函した。そして門扉を過ぎるとき、アパートの方を向いて深くお辞儀をする。
(上京してもう一五年以上も過ぎたのか)
地元の高校を卒業後、鈍行列車を乗り継いで憧れの地、東京に辿り着いたことを昨日のように思い出す。アルバイトや訪問販売を兼業する一方で、今後必要と思われる知識を身に着けて行った。
徐々に金銭周りは良くなったものの、父親がこさえた借金の返済に費やしたため、当人が贅沢をすることは無かった。
それでも、世間に名の知られた存在になることができただけでも、ティリオンは幸せであった。大きな夢を語っては周囲の者に馬鹿にされ続けてきたが、『歴史に名を刻む』という一応の目標は達成することができた。今回の異世界への移民によって支払われた報酬をもって、父親の借金は全て完済となる。
(もう思い残すことは何もない)
リュックの重みをずしりと感じながら、ティリオンは最寄りの駅へ向かおうとした。
そこへ物陰から大勢の人が現れた。彼を信奉して止まないファンたちが、彼の元に殺到したのだ。
「ティリオンさん、ここを離れても私たちのこと……忘れないでね」
そう言って主婦たちは、手作りのお菓子やら贈答品をアパートの門扉前で手渡した。
「これはどうも皆さん。朝早くからありがとう」
「私たち、これっぽっちもあなたのこと、嫌いになんてなってないからね」
「そうよ、毎週水曜日の報道番組、あれだけが生き甲斐だったのよぅ」
皆がうんうんと頷く。
「それは何よりです。しかし、こうなった以上、私が表舞台に姿を現すことは難しいでしょう。とは言え。皆さんの心の中に私の姿が生き続けられるのであれば、それは本望です。もうここには戻って来ませんが、皆さんお体を大切にご自愛ください……」
それを聞いた女性のファンたちは一斉に号泣し始めたのだ。彼を取り巻く、女性の悲鳴を近所の住民が聞いて、警察が駆けつけたほどであった。
異世界に行くにあたって和名である「葛葉」を名乗るのはおかしい。なので、今後は葛葉の名前を捨て、正々堂々とティリオンを名乗ることを決めていた。
アイナとは異世界へと通ずるとされる列車の中で知り合った。
誰も知らない場所に、そのプラットホームはあった。正確には列車のようなものであり、異世界へ旅立つという演出のための、便宜上の空間だ。
真っ白な空間の中に煙突を供えた機関車が、ポツンと目の前にあった。線路は見えるが、それがどこに続いているのかは分からない。客車も前世代の古めかしい物だが、この演出こそ不便な社会へ送り出されること暗示していた。
三両編成、真ん中の車両の乗り口から入り、コンパートメントの木製ドアを横に開ける。座席が向かい合った造りで、中は思った以上に広かった。
そこにはまだ誰も乗っていない。
リョックを持ち上げると、ティリオンは荷棚へとそっと置いた。
「ここはどこなのだ?」
以前面接を受けた場所から面隠しをされ、この列車が止まるプラットホームに連れてこられた。場所どころか正確な時間さえも分からない。不思議なことに腕時計が止まっている。
情報を得ようと車窓を上げて車体を乗り越えるように覗き込んでみたが、ワイヤーフレームで描画された場所という以外、何も分からない。それは夏に目撃する入道雲のような白さ。
座席に座り、手持無沙汰から取り出しておいた書類を、脚を組みながら眺める。
『異世界への手引書』
それは修学旅行のときに手渡された「旅のしおり」のようだ。
「Ⅾ列の個室個室……あ、ここや!」
ドアの外から若い女の声が聞こえた。
ガラッと音を立ててドアが真横に開くと、露出の激しい浅黒い肌の女が立っていた。腰で裾を結んだ黄色のTシャツに、デニム生地のホットパンツ。——それがアイナだった。
「ああ、先客おったんかいな。ゴメンやで」
よっと、という掛け声とともに、海外旅行向けの大きなキャリーバックをコンパートメントの中に入れた。
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