第432話 ナオミの訪問

 イケルには不安がある。

 気温が暑くなる前に、ムフロンの毛刈り作業がある。

 ヒエンから毛刈りの方法を習っていたが、作業はムフロンを押さえながらハサミで毛を刈る。それは片腕の自分にはできない。

 もし、これができなければ、自分は役立たずとみられて追い出されるのではないか? そんな不安が彼の心の中にあった。


 ある日の夜。

 ヒエンがイケルとトニアに明日は授業は休みと伝えると、二人がしょんぼりと落ち込んだ。

 二人はヒエンの授業が好きだった。

 彼女は全く感情を出さないが、間違っても怒らず、正解したら優しく褒めてくれる。

 それは全て『なんでもお任せ春子さん』と、彼女の疑似感情アプリケーションの仕様なのだが、二人からしてみれば透明感のある美しさと慈愛の心を持つヒエンは母親のように映った。


 イケルには朧気ながら両親の記憶があった。

 母親は毎日昼から酒を飲んで酔っ払い、子供のイケルに暴力を振るう女性だった。

 彼女はトニアを生んだ後、しばらくして別の男と一緒に消えた。

 父親は、そんな女の子供は要らないと、イケルとトニアを家から捨てた。

 ろくでなしの両親の記憶があるイケルは、朝から晩まで働きながら、自分とトニアの面倒まで見てくれるヒエンを凄いと思った。




 ……翌日。

 ムフロンの厩舎の掃除を終えたイケルとトニアが宿舎に戻ると、ナオミが二人を待っていた。


「久しぶりだな。私を覚えているか?」

「は、はい!」


 イケルが慌てて返事をして、トニアと一緒に頭を下げた。

 真っ赤な髪に、派手な格好。トニアを治した薬の製作者であり、白鷺亭で暴漢から守ってくれた恩人。そして、彼女はかの有名な「奈落の魔女」。

 吟遊詩人が語る物語に登場するほど有名なナオミを、イケルとトニアは片時も忘れていなかった。


「そんなに緊張しなくていいよ」


 緊張している二人の様子にナオミが微笑んだ。


「えっと、ルディ様は?」


 ナオミが居るならルディも居るはず。

 イケルとトニアがルディを探すけど、何処にも居なかった。


「ルディは今一郎と一緒に魔物退治に行ってるから、ここには居ないよ」

「一郎?」


 ゴブリン一郎を知らないイケルが誰だと首を傾げた。


「まあ、アイツ等の事はほっといて、今日はイケルに用がある」


 ナオミはそう言うと、テーブルの上に置いてあった長細い箱から、人間の腕をイケルに見せた。

 腕に驚いたトニアがイケルの後ろに隠れる。


「はははっ。これは本物じゃないよ」


 イケルが改めて腕を見る。ナオミは本物ではないと言うが、どこからどう見ても本物の腕にしか見えなかった。


「えっと……その腕をどうするのですか?」

「察しが悪いな。お前の腕に付けるに決まっているだろ」


 ナオミの返答に、イケルが困ったような顔を浮かべた。

 歩くのに必要な義足と違って、義手は着けても、肘は曲がらない、手首は動かせない、指も動かない。

 イケルは見せかけるだけしか使えない義手なら、別にいらないと思った。




 イケルの顔を見て、ナオミがニヤニヤと笑みを浮かべた。


「今、動かせない腕なら、要らないと思っただろ?」

「いえ、そんなことないです!」


 心の内を見破ったナオミの問い掛けに、イケルが慌てて否定する。


「否定しなくていいよ。私が同じ立場だったら、同じ事を思っていただろうからな。だけど、この腕は動くぞ」

「……え?」

「ルディに感謝しろよ。アイツがお前の為に義手を作った。この腕はお前の意思で自由に動く」


 ナオミの言う通り、ルディが作った義手は、本人の意思で動かす事ができた。骨格はカーボン、筋肉はタンパク質の筋肉で作られている。

 慣れてしまうと痛覚すら感じられて、本物の腕と遜色ない義手だった。


「……信じられない」


 自由に動かせる義手なんて聞いた事がない。ナオミの説明を聞いても、イケルはとてもではないが信じられなかった。

 一方、トニアはまだ状況が分かっておらず、ヒエンのスカートを掴んで不安な表情を浮かべていた。


「まあ、信じられないと思うが本当だ。ああ、ルディが謝っていたよ。立場上、こんな物しか渡せないってね。私からすれば十分だと思うけどな」


 ナオミが笑って肩を竦める。

 実際にルディがイケルの腕を生やそうと思えば、宇宙の医療技術で生やすのは可能だった。

 ただし、そのためにはイケルをナオミの家にある、地下の医療施設へ連れて行く必要がある。

 ルディは自分が宇宙から来た事を教えたくない。それはイケルが相手でも同じだったので、今回は義手という方法を選択した。




 失った右腕がまた手に入る。これは夢ではなくて現実なのか?

 一度失った者にしか分からない衝撃にイケルが動揺していると、ヒエンが後ろから彼の肩に手を置いて優しく声を掛けた。


「イケル、大丈夫ですよ。ルディを信じなさい」

「……ヒエン先生」


 イケルが振り向くと、珍しくヒエンが微笑んでいた。なお、仕様。


「イケルがずっと悩んでいたのは知っています。確かに貴方が思っている通り、毛刈りは両手がなければできません」

「……はい」

「だけど、この腕があれば毛刈りが出来ます。貴方の刈った毛が毛糸になって子供の服になる。それで、多くの子供の命が寒さから救われるのです。もし、ルディに恩を返したいのなら、沢山の子供の命を救いなさい。それがルディに対する最大の恩返しです」

「……分かりました。ナオミ様、よろしく願いします」


 イケルはヒエンに大きく頷くと、ナオミに向かって頭を下げた。


「うむ。では早速取り付けるから、上着を脱げ」


 ナオミの命令に、イケルが服を脱ぎ始めた。

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