第343話 鬼の優しさ

 アスカが居なくなった後の兵士の指導は苛烈だった。

 僅かでも2人の動きに乱れがあれば、直ぐに連帯責任による腕立て伏せ、腹筋、背筋、スクワットをさせられた。

 なお、連帯責任の筋肉トレーニングは、シプリアノとハシントだけでなく、命令した兵士2人も一緒になって行っていた。

 自ら体罰を受ける兵士に、2人は「コイツ等、マゾか?」と思った。


「ずいぶん遅かったな」


 午後になってブートキャンプに戻って来た2人に、アスカが呆れた様子で声を掛けた。


「イエス、マァム! コイツ等は予想を超えたデブでした」


 兵士の報告にアスカが鼻で笑った。


「そんなのは、ぶよぶよの体を見ればすぐに分かる。ご苦労だったな、お前たちは訓練に戻れ」

「「イエス、マァム!」」


 アスカの命令に敬礼した後、兵士が駆け足でアスレチック場へと走り、この場にアスカとシプリアノ、ハシントが残った。

 シプリアノとハシントは疲労困憊と言った様子で、今すぐにでも倒れそうにしていた。


「誰が休めと言った!」


 そんな2人にアスカの容赦のない怒号が飛び、2人は条件反射で姿勢を正した。


「私はお前たちを過大評価していた。どんな無能でも進軍程度なら普通にできると思っていた。だが、腹筋1つまともにできない豚には無理だったらしい」

「「…………」」


 シプリアノとハシントは悔しかった。自分を無能扱いするアスカを殴り殺したかった。だが、キレたところで反撃に遭うのは分かっており、黙って話を聞いていた。

 しかし、それをアスカが許さなかった。


「黙るな! 私への返事は「イエス・マァム」だ‼」


 アスカはそう言うと、2人の頬をビンタして吹っ飛ばした。


「立て‼」


 床に倒れた2人を見下ろしてアスカが命令する。

 だが、殴られた2人は理解の限界を超えてしまい、動けなかった。


「立て‼ 返事をしろ‼」


 容赦なくアスカが2人の胸倉を掴む。そして、2人合わせて200Kgを超える体重を軽々と持ち上げて宙づりにした。


「良いか良く聞け。ここでは私が上官だ。上官の命令は神の命令だと思って従え。……返事は!」

「「イ、イエス、マァム」」

「声が小さい‼」

「「イエス、マァム!」」

「まだ小さい‼」

「「イエス、マァム‼」」


 アスカに胸倉を掴まれて、シプリアノとハシントが泣きながら大声で叫ぶ。それでアスカも胸倉から手を離して、2人を解放した。


「今日は初日だ、これで許してやる。部屋に戻って休め。明日からはもっと厳しくなるぞ」


 アスカはそう言い残すと、2人を置いて訓練中の兵士の方へ歩きさった。

 シプリアノとハシントは、半日もしない内に肉体と精神の両方から攻められて、目からハイライトが消えていた。




 アスカから解放されても体が動けず、2人は10分以上留まっていたが、疲れた声でハシントがシプリアノに話し掛けてきた。

「兄貴、逃げよう」

「…………」


 それにシプリアノは答えず、だが気持ちはハシントと同じくどうやって逃げるか考えていた。

 裸同然で拉致されたから、銅貨1枚持ってない。

 領都へは出入禁止されているから、領主館に残してた私物を取りに行けない。

 不慣れな土地だから、何処へ逃げればいいかも分からない。

 八方塞がりな状況だったが、ここから逃げなければ何時かは殺される。


「そうだな……逃げよう」


 シプリアノがハシントに頷いて立ち上がる。

 こうして2人は宿舎へ向かわず、ふらふらと歩いてブートキャンプを抜け出した。




 太陽が西の空に沈んで夜になると、シプリアノとハシントは暗闇に閉ざされて一歩も動けなくなった。

 そんな2人の状態は最悪だった。

 喉が渇いても水はない。

 お腹が空いても食べ物はない。

 散々やらされた筋肉トレーニングのせいで、体が死ぬほど痛い。

 着の身着のままで逃げたから、汗が冷えて体温を奪っていた。


 逃げたは良いが、直ぐに2人は逃げた事を後悔していた。


「兄貴。俺たち、このまま死ぬのか?」


 空腹で腹を鳴らしながらハシントが言う。


「何でこうなった……」


 シプリアノが自分に問いかける。

 自分はただ他の貴族と同じ様に生きていただけ。

 領民から税金を取り、領地の経営は全部部下に任せて、自分は贅沢に暮らして威厳を見せる。

 貴族なら当たり前。そんな普通の生活をしていただけなのに、バシュー公爵に付け届けをしなかっただけで、爵位と領地を奪われた。


 ペニート宰相からの手紙には、デッドフォレスト領で真面目に働けば、爵位を取り戻せるように考慮すると書いてあった。

 爵位が戻れば貴族年金が手に入る。今までの贅沢な暮らしは出来ないが、働かずとも生きていけると誘いに乗った。

 なのに、デッドフォレスト領に行ったら、ブートキャンプとか言う地獄に落とされて、逃げた先で死にかけている。


「何でこうなった……」


 泣きながらシプリアノが繰り返し同じ事を言う。


「だから逃亡するなと言った筈だ」


 まさか返事が返って来るとは思わずシプリアノが顔を上げると、暗闇の中、アスカが困り顔で立っていた。


「ヒィ!」

「嫌だぁぁぁ!」


 暗闇にアスカが現れて、シプリアノとハシントが悲鳴を上げて逃げようとする。

 だが、体力の落ちた体は言う事を聞かず、直ぐにアスカに捕まった。


「愚か者。そんな体で何処へ逃げるつもりだ。本当に死ぬぞ」

「た、助けてくれ!」

「落ち着け、水と飯を持ってきた。まずは食べて体力を取り戻せ」

「ひえぇぇ……へ?」


 水と飯を持ってきたと聞いて、2人は逃げるのをやめて、疑いの目をアスカに向けた。


「まずは飲んで食って、心を落ち着かせろ」


 アスカが水と食料を渡すと、2人はがぶがぶと水を飲んで、貪るようにレーションを平らげた。


「それで、地獄に落ちた感想はどうだ?」

「「…………」」


 アスカの質問に2人は何と答えて言って良いのか分からず、無言でいた。だが、直ぐに今日の午後に返答をせず、ビンタされた事を思い出して、身を竦めた。


「……まあ、今回は許してやるよ」


 怯える2人にアスカが微笑して話を始めた。


「一度地獄の底に落ちた人間はそのまま死ぬか、這い上がるかのどちらかだ。お前たち這い上がれ。そして、強くなれ」


 アスカから怒号が来ると思ってたのが、まさか優しい言葉を掛けられて、思わず2人がアスカの顔を見つめる。

 そして、暫くすると2人の目から涙が流れ始めた。


「うっうぅぅぅぅ……」

「ちくしょう、ちくしょう……」


 何の涙なのか分からない。

 だが、鬼だと思ったアスカの優しさに2人は落ちた。


 そんな2人に付いたあだ名は「泣きべそデブ」だった。

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