氷河期を溶かすおばあちゃんのビーフシチュー
氷川 晴名
おばあちゃんのビーフシチュー
氷河期がきた。
何の前触れもなく地球の気温が下がって、海が凍った。
連日テレビのニュースでは、専門家が「信じられない出来事」だの「何万年に一度」だのと議論を繰り広げているが、あたしにとってそんなこたーはどうでもいい。
とにかく、寒い。
「信っじられないくらい寒いんだけどぉ!」
友人の
いつも寒いが、今日はあまりにも気温が低かったから、学校終わりにここへ行こうと透子と約束していた。
けど……。
寒い、寒すぎる。
もうすぐ春だってのに、気温はもちろん真冬以下。
いや、真冬でもぬるい。
「マジ寒い! マジ死ぬ! っ、誰だよっ! 女子の制服スカートにしたやつ! 足なんて出してられるかボケ」
透子がスクールバックから体育ジャージのズボンを取り出し、せっせと履く。
ヒートテック、貼るカイロ、カッターシャツ、カーディガン、ブレザー、ライトダウンジャケット、ウィンドブレーカー、手袋、マフラー。
こんな軽装で学校に行くんじゃなかった。
お母さんの言う通り、もう一枚アウター着てけばよかったなり。
と、震えながら後悔に浸っていたとき、突風があたしと透子を襲った。
ひゅおおおおおおおおおお。
「いやああああああああああ!! 無理無理無理ぃぃ!!」
「寒い、寒い、寒い!! お前、ウィンドブレーカーでしょうが!! ウィンドをブレイクしろよ!! 製造会社訴えてやらああああああああああ!!」
叫び散らかすことしかこの寒さに勝つ方法はないらしい。
とにかく声を出して、体の芯を燃やせ!!
そうすれば、暖かくなるって野球部が言ってた!
……。
……。
「全然あったかくならねぇじゃねぇかよぉ!!」
野球部の奴ら訴えてやる!!
「もう無理だよう。あたしたちこのまま死ぬのかな……」
「がんばろうよ透子。もうすぐ、もうすぐだから……!」
気がつくと前に並んでいたダウンジャケットのフードを被った雪だるまみたいなシルエットの人がいなくなっている。
ということは、もうすぐ、あたしたちの番……!
あと、少し。あと、少し。
……。
「次の方、どうぞ」
ガラガラと食堂の引き戸が開かれ、三角頭巾を被ったエプロン姿の大学生くらいの人、いや、三角頭巾の天使があたしたちの前に姿を現した。
小さな食堂は古い建物のため、暖房なんぞは設備されていない。
昔ながらのストーブがひとつ置いてあるだけ。
それでも、建物の中はウィンドをブレイクしないアウターより、よっぽど風避けになる。
ガタガタと震えながら席に着いたあたしたちの前にふたつのお水が置かれた。
「あー。水ですらあったかい……」
「それ。もはや液体が恋しいよ。液体らぶ。固体は許さんけど」
「えーっと……、ご注文は何にいたしますか?」
紙とペンを持った三角頭巾の天使が、液体のありがたみをしみじみ感じていたあたしたちに注文を訊いてきた。
ふふっ、そんなのここへ来る前から決まってるじゃんか。
透子と顔を見合わせ、
「おばあちゃんのビーフシチュー、で」
と、応えた。
「寒い中来てくれてありがとうね。おかわりもあるから、ゆっくり食べてってねぇ」
しばらく待ったのち、お店をやっているおばあちゃんが湯気を上らせながらふたつの小さな鍋を持ってきてくれた。
ごとん、とあたしと透子の前に二人前のビーフシチューが降臨する。
「透子……。本物のシチューだよ……!」
「はぁはぁ……。あ、あったかい。うへ、うへへ」
透子がおかしくなりかけてるのはおいておいて、シチューの具材は王道の王道、じゃがいもとにんじん、溶けて見えにくいけど、玉ねぎが入っている。
そして、ごろごろと巨大な牛肉が、見るからに濃厚そうな焦げ茶色のシチューに浸っていた。
早速、木製のスプーンでその肉をすくおうとした——
「うそ……」
——が、スプーンの縁が触れた途端、ほろりと肉が崩れてしまった。
なんてこった。食べなくてもわかる。
このお肉やわらかすぎる……!
今度は割り箸を使って、崩れてしまった塊をスプーンにのっけていく。
なるべくスプーンを持ち上げないように、顔を鍋に近づけ、そして、
スプーンにかぶりついた——
溶けた……。
あんなに大きなお肉が一瞬で、溶けてなくなった。
味だけを口の中に残して、液体になって溶けていった。
「えーん。あったかいよぉ。おいしいよぉ……!」
冷え切った体が、いや、冷え切った心がじんわりとあったまっていく。
——連日ニュース番組に出演している専門家のみなさん、あなた方の議論はとてもためになります。
——ウィンドブレーカーさん、あなたがなかったら今日はもっと寒い思いをしたかもしれません。
——声を出すとあったまると教えてくれた野球部のみなさん、あなた方のおかげで少しはあったかくなったと思います。
——別に固体だっていいじゃないか。
氷河期によって冷やされていたのは気温ではなく、人の心だったのかもしれない。
じゃがいもやにんじんも口の中に放り込んだが、同様に溶けてなくなってしまった。
まさに、このビーフシチュー全体が、氷河期の世界には存在しない液体そのもののようであった。
液体らぶ。
「おほっ、おほほほほ……」
透子は胸の前で両手を組んで、白目を剥いてしまっていた。
ビーフシチューを食べたことで、三角頭巾ではなく、輪っかを頭に浮かべたモノホンの天使に連れていかれそうになったのだろう。
「高校の制服をスカートに規定してくれた方、あなたのおかげでかわいい服装で登校できます。うへへ」
「透子、しっかり! あんた顔やばいよ」
「はっ、あたしは一体……!?」
透子が昇天しかけたのはおいておいて、心の氷河期を溶かすのは、おばあちゃんのビーフシチューのような愛情たっぷりの温かい料理なのだろう、とこのとき思いました。
おしまい!
氷河期を溶かすおばあちゃんのビーフシチュー 氷川 晴名 @Kana_chisa
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