あの素晴らしい料理をもう一度

立野 沙矢

あの素晴らしい料理をもう一度

「やっ。来ちゃった」

 玄関口に立っていた総悟そうごがあっけらかんとした口調でそう言った。

 夜も七時を越えた頃に、玄関の開く音も聞こえなかった私は、いつの間にか彼が来ていたので驚いてしまった。

「急だったから、びっくりしたじゃない。そろそろ来るかな、とは思っていたけど」

 私の少し非難めいた言い草を、総悟はごめんごめんと軽く流して、

「実は美智香みちかに頼みがあってさ」と言った。

「頼み?」

「四日前にグラタン作ってくれたでしょ。あれをもう一度作って欲しくってさ」

 急に来たと思ったら食事を作ってくれとは。

 総悟らしい、マイペースな物言いだ。

「四日前に作ったグラタン? あの鶏肉のやつ?」

「そう。どうしてもあの料理をまた作って欲しくって」

 私は玄関からキッチンの方向を見やった。

 一人暮らしの1LDKには、少し立派なキッチン。その奥に鎮座している冷蔵庫の中身を思い出し、少し思案する。

 大丈夫。

 材料は揃っているし、そこまで手間なわけでもない。

 それに何より、他ならぬ総悟の頼みだ。断るという選択肢なんて最初からない。

「わかった。今から支度するから。とりあえず上がって、リビングでちょっと待ってて」

 手短に言って、私はキッチンの方に向かった。



 私は総悟の注文どおりにグラタンの支度を始める。

 総悟もまた、私に言われたとおりにリビングで待っていた。

 総悟は私の幼なじみで、恋人だった。

 家がご近所同士だった私たちは、幼稚園の時からずっと一緒で、小学校、中学校と同じ学校に通っていた。

 高校は別々になったけど、中学を卒業する直前に、総悟の方から告白してくれたのをきっかけに付き合い始め、大学二年生の今まで、かれこれ五年ほど恋人関係を続けていた。大学進学を機に上京した時も、なるべく近くの部屋に住むことにしたので、私の部屋を総悟が訪れたり、逆に私が彼の部屋を訪ねることはほぼ毎日のことで、四日前にも彼は私の部屋に来ていたのだった。

 総悟は別に顔が極端に美形というわけではなかった。むしろどちらかと言えば平凡な顔つきだったし、初対面の人なら会って五秒後には忘れるだろう、どこにでもいるありふれた顔つきだった。

 身長も平均より少し低いくらいで、スタイルも決していいわけではなかった。

 それでも周囲の人に見せる優しさや、彼の醸し出す落ち着いた雰囲気はとても魅力的だったし、のほほんとした物腰と柔らかな話し声に、私は強く惹かれていた。

 そんなわけで、総悟から告白された時は、涙が出そうなほど嬉しかった。

 見た目はごく平凡な総悟ではあったけれど、幼い頃からヴァイオリンを弾いていて、その演奏は極めて非凡だった。

 そっちの業界ではかなり有名な奏者だったらしく、幼い頃からコンクールにも何度も入賞していた。私も何度も総悟の演奏を生で聴いたことがあったが、音楽に関しては素人の私でも、その演奏が優れたものであることははっきりわかった。

そんな彼だったから、音楽大学に進学するのは当然と言えば当然の流れで、海外に留学したいと望むのも、やはり当然の成り行きだったらしく、来週にはフランスへ留学する予定となっていた。

 四日前にも、留学準備で忙しい合間を縫って、私に会いに来てくれたのだった。

 総悟はマイペースな人ではあったが、私に対する態度はいつも思いやりに溢れていた。メールの返事も一日と空けることはなかったし、言葉に出さなくても、私の体調不良にいち早く気づいてくれることもあった。

 そんな総悟が、私は本当に大好きだ。

 一方で、彼に私が何かをしてあげられたかと言えば、あまり自信はない。

 自分で言うのも情けない話だが、私は彼のように優れた音楽の才能もなければ、見た目も平凡だし、勉強でも運動でもいたって並みの人間だ。総悟が私のどこに惚れてくれたのか、今でも疑問に思っているほどだ。

 私にはただ、こうしてお互いの部屋で会う時なんかに、少し得意な料理を総悟に振舞ってあげることくらいしか、してあげられることはなかった。それでも、私が作った料理を、彼はどれもとても喜んで食べてくれた。私はそれが嬉しくて、より腕を磨こうと練習を重ね、料理のレパートリーを増やし、今ではオリジナルの料理を振舞えるまでに成長した。

 今日、彼が注文してきたのも、そんな料理のうちの一つだ。

 私はキッチンに置いてあるスマートスピーカーに「クラシック音楽をかけて」と言った。

 とあるタレントの真似をして、料理を作る時には、いつも音楽を掛けるようにしている。普段はポップスとかロックとか、流行りのアイドルソングとかを掛けるのだが、総悟が来た時には、クラシック音楽を掛けることにしていた。

 総悟がヴァイオリンを弾くからというわけでもないが、いつの間にか私もクラシック音楽にそこそこ詳しくなっていた。

 スマートスピーカーは『乙女の祈り』を選曲した。

「さっき言っていたけどさ、」

 リビングのローテーブルの前に座っている総悟がそう聞いてきた。クッションも使わず、床に敷かれたラグの上に直に座っている。

「今日、俺が来るような気がしていたの?」 

「うーん、今日もしかしたら来るかなー、って思って」

 玉ねぎをスライスしながら返事する。

「美智香って、昔から本当に勘がいいよね。そういえば霊感も持っているって言っていたもんね。霊がはっきり見えるとか」

「霊感と勘って関係なくない?」

「似たようなものでしょ? 音が近いし、大きいくくりで言えば第六感ってことで」

「全然違うと思うけど……」

 この男の脳内カテゴリーはいったいどうなっているんだ。

 でもまあ確かに、私の勘は人一倍鋭いには間違いない。

 勉学や運動や、その他もろもろの才能においてはいたって凡人極まる私だけれど、こと勘の良さに関しては非凡であるという自負があった。

 テストの選択問題でまるで知らない問題に出くわしても、ほぼ確実に正解肢を選択できたし、大学受験もそれだけで合格できたようなものと言っても過言ではない。総悟が何を食べたいか、勘だけで当てて、夕飯の準備をしたら総悟の食べたいものずばりそのものだった、なんてこともある。あの時は総悟も、目を白黒させて驚いたものだ。

 そんなこともあって、総悟も私の勘の良さは百も承知だったから、私に隠し事するようなことは全くなかった。

「でも、霊感あるって前に言っていたよね?」

「霊感なんて言っても大体の人はぜんぜん信じてくれないけどね。だけど結構、映画館とかでもはっきり見えちゃって。それこそ生きている人と区別がつかないくらい。おかげで未だに映画館とかお化け屋敷とかは苦手」

「それは大変だったね」苦笑まじりに総悟が言うが、彼もこのことはよく理解していたし、私の言うことを信じていたから、デートに誘う時も、映画館とか薄暗い場所とか、そういう「出そうな」場所に誘われたことは一度もない。彼のそんな優しさがとてもありがたかった。

 総悟と話す時間は、穏やかで、静かで、思いやりに溢れていて、心地よかった。

 


 会話を続けながらも、私の手は具材の下処理を続ける。

 ブロッコリー、マッシュルームを一口大にカットして下茹でしておく。ほうれん草とマカロニも下茹でしておいて、ほうれん草はほかの具材と同じくらいの大きさに切り揃える。

 続けて、大事なホワイトソースに取り掛かる。

 バターを溶かしたフライパンで玉ねぎを炒め、玉ねぎがしんなりするまでゆっくり火を通す。玉ねぎに火が通ったところで小麦粉を加えて、色づくまでじんわりと熱を加える。

 いつも思うのだが、小麦粉とバターというものは、一緒に熱するとどうして、これほど甘美な香りを放つのだろうか。きっと彼らは前世から相思相愛だったのだろう。きっとそうに違いない。

 牛乳と固形コンソメを加え、とろみを帯び始めると、より一層、魅惑的な香りへと昇華する。にならないようなめらかになるまで混ぜたところで、ホワイトソースは完成。

 お次は鶏肉に取り掛かる。

 熱々に熱したフライパンで、皮付きの鶏もも肉をソテーする。

 皮目をパリッとさせる程度で充分なのでそれほど時間は掛けない。この段階では中までしっかり火を通す必要はないから、焼き目さえつけばそれでオーケーだ。

 スマートスピーカーの音楽は、ショパンの『夜想曲』になっていた。

「四日前に食べたときにさ、」

 いつの間にか背後に立っていた総悟が言う。

「なんだかいつものグラタンと違うなー、って思ったんだよね。味が一緒じゃないって言うか。途中で全然違う味に変わると言うか」

 要領を得ない言い方だが、なるほど、この男にしては珍しく鋭い。

 彼はマイペースな上に、いろんなことに大まかな性分で、味の良し悪しにもそこまで頓着しなかった。私の料理も基本的には喜んで食べていたが、どういう味付けをしているかなんてことにはまったくと言っていいほど興味がなく、「おいしければ何でもいい」の精神で食べていた。けど、言われてみれば、確かに四日前はいつもよりもやけに何度も「おいしい」と連呼しながら食べていたっけ。

「それはだね、ワトソン君。このグラタンにはある秘密があるのだよ」

 芝居がかった言い方で私は言った。

「秘密って何?」

 私の芝居がかった言い方に対して、あっさり彼は聞いてきた。

 この男はこういう小芝居にはあまり乗ってくれなかった。

「それはあとのお楽しみ」

 乗りの悪い彼に少し頬を膨らませながら、もったいぶって私は言った。

 ソテーした鶏肉をグラタン皿に乗せる。下処理を済ませたブロッコリー、マッシュルーム、ほうれん草、それとほんのちょっとのマカロニを添えて、上からホワイトソースを掛ける。

 その上にチーズを乗せる。

「実はこのチーズがこのグラタンの影の主役なんだ」と私は言った。

「チーズが?」キョトンとした顔で総悟が聞く。

 端からストライプ状に別種のチーズを並べていく。端からゴーダチーズ、チェダーチーズ、モッツァレラチーズ、パルミジャーノチーズといった具合だ。要はグラタンで、ピザで言うところの四種のチーズクアトロ・フォルマッジをやっているというわけだ。スーパーなんかでよくあるミックスチーズを使ってもおいしいだろうけど、あえてそれは使わない。

「なるほど。別々のチーズを混ぜずに入れたから食べている途中で味が変わったように感じたのか」

「そういうこと」私は得意げに言った。

 それぞれのチーズが混ざることなく焼きあがることで、チーズごとの違った味わいがグラデーションとなって楽しめるし、ホワイトソースの下にある鶏肉のソテーはそんなチーズを絡めて食べることで、鶏肉のステーキとしても楽しめるようになっているのだ。鶏肉は小さく切っていないから、食べ応えも抜群だ。

 そして盛り付けたチーズの中央は意図的に少しくぼませておく。上からパルメザンチーズをパラパラと掛けて、熱したオーブンで焼き目がつくまで焼く。オーブンでじんわりと熱が加わるので、鶏肉もジューシーな味わいになる。

「今日は何していたの?」焼きあがりを待つ間に総悟が聞いた。

「んー。昨日実家の方に行っていたからさ。今日はなんか疲れちゃって、学校サボっちゃった。だから部屋でぼーっとスマホ見てたり、荷物を片づけたりしてた」

 私は包丁やまな板を洗いながら応えた。

「学校サボっちゃったの? 単位とか大丈夫?」心配そうに彼は言う。

「大丈夫。今日は選択科目だけだったし、単位は多めに取っているから」と言って私は総悟にニヤッとしてみせた。

 そうこうしているうちにグラタンが焼きあがった。

 オーブンを開くとかんばしい香りが部屋中に広がった。表面はカリカリの焦げ目がついたチーズだが、中はとろーりと溶け、芳醇な香りと共に、具材を優しく包んでくれている。

 そして、あらかじめくぼませておいた中央部には温泉卵をスポッと割り入れる。濃厚なチーズの旨みと、温泉卵の柔らかな甘みが、抜群のコンビネーションを発揮してくれるのだ。

「さあ、グラタン完成!」

 私が宣言し、リビングにグラタンを運ぼうとしたところで、

「四日前にも聞こうと思ってたんだけどさ、」と総悟が言う。

「このグラタンの名前って何?」

「グラタンの名前、って言われてもグラタンはグラタンだけど……」

「せっかく美智香のオリジナルなんだし、なんか名前つけないのかなって思ってさ。ほら、たとえば鶏肉と卵を使っていることだし、親子丼ならぬ『親子グラタン』とかさ」

「却下」

 すげなく私は言った。ここまで総悟に冷たく言うのもいつ以来だろうか。

 いくら何でも『親子グラタン』はくそダサい。

「普通に『チキンソテーグラタンの温たま添え』でいいでしょ。ほら、冷める前に早くテーブルについて」

 テーブルに料理と食器を並べ、向かい合わせになって私たちは座った。

 出来立てのグラタンはほかほかとかぐわしい湯気を上げている。

「いただきます」と私は手を合わせて、グラタンに手を付けた。

 表面のチーズを破りながら、下に潜んでいるソテーしたチキンを、フォークとナイフで切り分けながら食べる。

 ナイフでチキンを切り分けると、切れ目から熱々の肉汁が滴り落ち、胃袋をくすぐる香ばしい香りが漂う。

 チーズの絡んだチキンをかじると、柔らかな肉が口の中でほろほろと解けて、上にかかったチーズと共に旨みが口いっぱいに広がる。

 モッツァレラチーズはもっちりとした食感とわずかな塩味が肉の旨みを引き立てる。チェダーチーズの少し主張の強い味も、ゴーダチーズのくせのある味わいも、鶏肉の味に変化をもたらしてくれる。

 付け合わせのように入ったブロッコリーやマッシュルームはチーズの強い個性を和らげて、箸休めのような役割を担っている。もう少し味に変化を加えたい時は、上に添えられた温泉卵を破り絡めれば、これまた違った旨みを演出する。おまけみたいに入っているマカロニも食感をプラスしてくれている。

 四日前にもおいしくできたが、今日のは我ながら会心の出来だ。

「美智香って、本当においしそうに食べるよね」

 目の前の総悟が微笑みながら言った。以前から彼にはよく指摘されていたことだった。確かに、私は料理を作るのも大好きだが、食べるのもまた、同じくらい大好きだった。でも一番好きなのは総悟においしく食べてもらうことだった。

 そう言う彼は、まだグラタンに手をつけていなかった。

「だって、自分で言うのもなんだけど、天才的な出来栄えだもん」

 ほとんど食べ終えた私が、誇らしげに言う。

「そっか。それはよかった」

 どこか寂しそうな様子で、総悟は言った。

「ねえ、美智香」

 私が食べ終えた頃を見計らって、意を決したように、私を見つめて総悟は言う。

「ん。なあに?」

 グラタンの最後の一口を食べながら、私は返事をする。

「俺たち、別れよう」

 むしろ静かに、総悟はそう切り出した。

 やっぱりそう来たか。

 何となくだけれど、総悟がそう言うだろうという予感はしていた。こんな時まで、私の勘はよく当たる。

 四日前に来た時にも、そんなことを言っていた。その時には冗談めいた言い方で、遠距離恋愛になったら、美智香が自分のことをずっと好きでいてくれる自信がない、なんてことを言っていた。

 彼はフランス留学を決めた時から、私との関係がうまくいかなくなるのではないかということを気にしていた。幼なじみで、昔からいつも一緒にいたからこそ、離れ離れになることに不安を抱えていた。と言うより、離れた私が、総悟以外の男性に好意を抱いた時に、自分の存在が邪魔になるのではないか、ということを恐れているようだった。

 そんなこともあったから、今日もこの部屋に来た時から、総悟は別れ話を切り出そうとしているのではないかという気がしていた。離れ離れになる私に「自分以外の男性を好きになってもいいんだよ」という、彼なりの思いやりのつもりなのだろう。

 総悟が真っ直ぐに私を見ている。いつになく真剣な表情だ。私も目をそらさずに彼を見つめ返す。

 沈黙した私たちの部屋に、消し忘れていたスピーカーが気まずそうに、キッチンから音楽を流していた。

 私の返事は、もちろん、決まっている。

「いや」

 きっぱりと、総悟に向かって私は言った。

 総悟のばか。私が離れ離れになった程度で総悟以外の男になびく? 総悟を忘れて? そんなことあり得ない。

 総悟は困ったような顔で私を見る。

「これからはもう、会えなくなるし、美智香を一人にしてしまうと思うと、俺は耐えられないんだよ。だから……」

「この前も言ったでしょ。離れていても、私が総悟のことを好きじゃなくなるなんてことはないし、総悟以外の男を好きになるなんてこともない」

 私をなめてもらっては困る。

 彼がどれだけ遠くに行ってしまっても、そんなことで愛が冷めるような私ではない。私がどれだけ総悟に惚れているのか、総悟自身がわかっていないのだ。

「むしろ、総悟の方が私のことなんて忘れちゃうんじゃないの?」

「そんなこと、あるわけないじゃないか!」総悟にしては珍しいほど大きな声で言った。

「だったら、私だって同じだよ。たとえ死んでも私は総悟と別れたりしない」

 私はきっぱりと言い放った。

 そんな私を見て、総悟は困ったように眉を八の字にして苦笑していた。

 言うことを聞かない子供を前にするような顔。

 私がわがままを言うといつもする顔だった。

 こういう風に総悟と言い合いになった時に、私がテコでも動かない頑固者だということを、彼はよく知っていた。

「わかった。でも気が変わったら、いつでも俺を忘れていいからね」彼はため息まじりに言った。

「大丈夫。変わったりしないから」

「そっか」

 柔らかく微笑みながら総悟は言った。

 そんな総悟を見て、私も微笑み返した。

「さて、片づけるとしますか」

 空気を変えようと、両手をぱしんと叩き、わざとらしく明るい声で私は言った。

「グラタン、作ってくれてありがとう。ごちそうさまでした」

 手を合わせながら、総悟が言った。

「はい、おそまつさまでした」

 私の分の食べ終えた食器をキッチンに運んでいきながら、私は言った。

「美智香」

 背後から総悟が声を掛けてくる。

「んー、なあにー?」

 流しでグラタン皿を水に浸しながら、振り返らずに私は返事をする。

「じゃあね。大好きだったよ」総悟の優しい声がそう呟いた。

 私は反射的に後ろを振り返った。

 でも、もうそこに総悟の姿はなかった。

 総悟は部屋からいなくなってしまっていた。

 急いで玄関の方も覗いてみたが、彼はどこにもいなかった。

 部屋に一人残された私は、テーブルの上ですっかり冷え切った、手を付けられることのなかったグラタンをただ茫然と見つめていた。

 会話のなくなった部屋で、モーツァルトの『レクイエム』がスピーカーから流れるのを、私は黙って聞いていた。



 二か月後。

 私は総悟が眠っているお墓の前に立っていた。

 お花を供え、線香を上げ終えたところだった。

 総悟が最後に、私の部屋を訪れた日の、翌日の朝。

 総悟は車にかれて死んだ。

 警察の調べによれば、総悟を轢いた車の運転手はスマートフォンを操作しながら運転していたらしく、総悟をねる直前まで、彼にはまったく気づかなかったそうだ。

 そのしらせを聞いた時は、あまりに現実感がなさ過ぎて、誰か別の、まるで違う人の話ではないかという思いだった。

 二日後に総悟の実家で開かれたお通夜で、焼香を上げる時も、遺影の中で微笑むいつもの彼の顔が、まるで他人の顔のように見えた。

 事故の報せを聞いた直後から、私は彼に何度かメールを送ってみた。当然だけれど、彼から返事が来ることはなかった。いつもだったら一日と空けずに返信してくれるのに、どれだけ待っても、彼から返事が来ることはなかった。

 やっぱり総悟は死んでしまったのだと、そこで妙に納得してしまった。

 フランスに留学するはずだった彼は、そんなところよりもっと遠い、決して会えないところに行ってしまったのだ。

 それでも。

 たとえ死んでしまっても、総悟は最期にもう一度、私に会いに来てくれる。

 私にはそんな予感があった。私の勘は人一倍よく当たるのだ。

 それに昔から霊感は強い方だ。幽霊の姿ははっきりと見えた。総悟もそれはよく知っていた。

 霊になった総悟でも、私には必ず見える。

 総悟の方でも、霊になってでも私に会いに来てくれる。そう信じていた。

 そして、やっぱり彼は来てくれた。

 たとえ死んでも、総悟は総悟のままだった。

 最期に私の部屋に来てくれた時、本当にすごく、すごく嬉しかった。

 だけど、最期だっていうのに、ろくな会話もしないで、別れ話まで切り出して、私には何も言わせないままで、自分の言いたいことだけ言って、また勝手にいなくなって。本当にマイペースなやつ。やっぱりどれだけ私が彼のことが好きなのか、ちゃんとわかっていないのだ。

 総悟のばか。

 でも、そんな彼が大好きだった。

 彼が死んでしまった今もまだ、大好きのままだ。

「たとえ死んでも、総悟とは別れたりしない」

 その気持ちは、一ミリも変わっていない。

「またね、総悟。来月にもまた来るから」

 そこにいない総悟に向かって、私は言った。

 お寺で借りた柄杓ひしゃくと手桶を持ってその場を後にする。

 そうだ。

 次に来るときには、またあのグラタンを作って持ってくることにしよう。

 きっと総悟も、喜んでくれるに違いない。


〈了〉

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あの素晴らしい料理をもう一度 立野 沙矢 @turtleheart007

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ