#12
「お前……、まだヴァイオリン持ってたんだな」
悠佑が部屋の隅に置かれていた楽器ケースに目をやる。
「あぁ、それね。引っ越しの時、何となく持ってきちゃった」
「今見るとやっぱ少しちっちぇな」
楽器ケースを自分の手元まで引き寄せ、ゆっくりとフタを開ける。
「あーあ、ちゃんと管理してねぇから弦緩みまくりじゃん。磨いて手入れすれば、一生ものなんだからさぁ」
リュックサックの中からチューナーを取り出し、悠佑がヴァイオリンの調律を始める。
弦を指で弾くたび、ぽーんぽーんとくぐもった音が鳴る。
さっきまでと打って変わって、調律をする悠佑の顔は真剣そのものだ。眉間にしわを寄せ、口をへの字に曲げている。これも昔からのクセだ。
調律が済むと、今度は弓の手入れを始めた。
布に包まれていた松脂の塊を取り出し、少し白茶けた弓の毛に丹念に塗りこんでいく。
松脂を布に包んでケースにしまおうとした時、何枚かの紙がケースからばさりと落ちた。が、悠佑は手入れに夢中なのか、そのことを気にする素振りはない。駿佑はその紙にどこか見覚えがあった。
「あっ、これ」
駿佑が手に取ったのは、ショパンのワルツの楽譜だった。
ワルツ第一番、『華麗なる大円舞曲』。
悠佑がヴァイオリンを辞めると決めた時、最後に二人で練習した思い出の曲だった。
ピアノ用の楽譜を、ヴァイオリンの二重奏用に簡単に手直しして練習曲にしていたのだ。
くたびれた紙束を、駿佑は懐かしい気持ちでめくっていく。
十枚近い楽譜はどれもびっちりと書きこみで埋められていた。強弱記号にはその強さに合わせてぐるぐると赤丸が付けられている。
楽譜を読み進めていると、次々と懐かしい思い出がこみ上げてくる。といっても、駿佑の中にあるそれは、大半が兄からされた数々のいたずらで占められている。転調のタイミングで突然弟のパートを弾き始めたり、曲の途中から少しずつ加速させたり……、弟よりも上手いことをいいことに、悠佑は練習中に数々のいたずらをしかけていた。その時の兄の生き生きとした笑顔まで、駿佑はありありと思い出していた。当時は憎たらしかった兄の姿も、今となってはどこか懐かしく感じる。
───磨いて手入れすれば、一生ものなんだからさぁ。
不意に、さっきの兄の言葉が駿佑の脳裏に浮かぶ。
駿佑には、この言葉がただ単に楽器のことを指しているだけでなく、もっと深いものを指しているように感じられた。
弓の手入れが終わったのか、悠佑がヴァイオリンを弾き始める。昨夜のステージとは別人のような、角のない優しい音色だ。流れる水のような滑らかな動きで、一音ずつ確かめるように弓を滑らせていく。
駿佑がその音色に聞き入っていると、どこか聞き覚えのあるフレーズが耳に飛びこんできた。驚きのあまり、駿佑は兄の顔を見る。悠佑が試し弾きで弾いていたのは、他でもない例のワルツだったのだ。驚く駿佑の顔を見て、悠佑は口元に薄っすらと笑みを浮かべた。
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