#10

 もはやこれ以上兄に隠しきれないと悟り、駿佑はぽつりぽつりと会社でのことを話し始めた。

 「……オレも新卒で営業に回されて、無茶なノルマばっか押しつけられて……、それが達成できなかったら上司に罵倒されることが日常だった……」

 「それで?」

 「それでも耐えて、段々と成績が良くなって昇進かと思ったら、異動はただのいじめだった。見かけは昇進だったけど、面倒事を押しつけられて、それまで以上にきつく当たられることが多くなった……」

 「駿、」

 「ん?」

 「お前会社辞めろ。俺が面倒見てやる」

 「は?」

 駿佑は思わず自分の耳を疑った。

 「何バカなこと言ってんの」

 「バカはお前の方だよ。 なぁ、駿、お前はよく頑張ってるよ。ここらへんで少し……」

 「同情なんてするなよ!」

 駿佑の怒鳴り声が悠佑の言葉をかき消す。が、それとほとんど同時に、駿佑はテーブル越しに胸倉を掴まれていた。非力な悠佑とは思えないほど強い力だ。悠佑の手が勢いよく駿佑の頬を打つ。

 「そんなんじゃねぇよ! お前死にたいのか?」

 駿佑以上に怒りに満ちた声だった。駿佑が今まで見たこともないほど怒りをあらわにしていた。が、駿佑は無言のままだ。というより、突然のことで頭の中が真っ白になっていた。

 「……あぁそうかよ。わかったよ」

 今までつかんでいた駿佑の服から手を放し、おもむろに悠佑は台所の方に立った。駿佑はちょうど台所を背にして座っていて、台所の悠佑が何をしているかは見えない。だが、背後で金属が何かに当たる音をかすかに聞いた。

 「そんなに死にたいなら、今ここで死んでくれ」

 その冷たい声に驚いて駿佑が振り返ると、悠佑が包丁を手に立っていた。

 包丁の刃先が、ゆっくりと駿佑に向けられる。

 自分に刃先が向けられていても、駿佑は不思議と恐怖は感じなかった。

 確かに一瞬驚きはしたが、夢を見ているようで、どこか他人事のようだった。

 包丁を持った悠佑が一歩、また一歩とゆっくり近付いてくる。

 だが、一歩踏み出すごとに、怒りで紅潮した悠佑の顔から血の気が引いていく。

 悠佑の足元で、フローリングの床が不気味な音を立ててきしむ。

 いつしかその顔は青白く、能面のようになっていた。

 初めは包丁の柄を固く握っていた手の力も段々と抜けていき、とうとう甲高い音とともに包丁が床に落ちた。  

 それに呼応するかのように、悠佑がその場に崩れ落ちる。

 「……俺が、悪かった。……頼むから、俺にもう二度とこんなことをさせないでくれ」

 悲痛な声だった。悠佑の目尻がほんの少し光っていた。

 駿佑は放心したように兄の顔を見ていた。

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