#8
「おーい、駿」
誰かが背後で自分を呼んでいる。
にーちゃん?
振り返ると目の前に高校の詰襟姿の兄が立っていた。背中には楽器ケースをかけていている。
夢なのだろうか。
左襟に三年の学年章をしているから、恐らく兄がヴァイオリンを辞める直前ぐらいだろう。
久しぶりに会ったから夢に出てきたのだろうか。
「ったく……、お前歩くの早すぎなんだよ」
走ってきたのか兄は肩で大きく息をしている。
「いやー、にしてもあいつらの反応面白かったな。だけどお前、高校生にもなってあんなガキみたいないたずらしかけてよぉ、ホントお前は狂ってるよな」
今とは印象がかなり違って見えていても、笑った時の顔は驚くほど変わっていなかった。
「あーもちろんいい意味で言ってんだよ。お前のいたずらはどこか憎めなくて、周りの人間を笑顔にするからさ」
兄は自分をそんな風に思っていたのか。
現実では兄にそのようなことを言われた記憶はないだけに、にわかには信じがたかった。
自分で言っておきながら恥ずかしいのか、兄の顔が少し赤くなっていた。
「ちょ、お前顔赤いぞ。熱でもあんのか? 年中騒がしい奴がこうも静かだと気味が悪いわ」
長い前髪の間から見える澄んだ目が自分の顔を見つめてくる。
自分だって赤くなってたくせに。
これだって本気で心配しているのではなく照れ隠しなのだろう。
そんな微妙な雰囲気をたたき壊すように、遠くから聞いたことのある声が飛んでくる。
「こらぁぁー、そこのバカ兄弟待ちやがれー」
後ろから兄の同級生数人が追いかけてくる。
「やっべ。駿、逃げんぞ」
兄に腕をつかまれ、わけも分からないまま二人で並木道を走る。
気付いた時には、思わず笑っていた。
心の底から笑ったのなどいつぶりだろうか。
本当に昔に戻れたみたいで、ものすごく幸せな気分だった。
だが所詮、夢は夢だった。
突然、地面がパックリ割れる。
確かに踏みしめていたはずの足元の地面が、薄氷のように脆く崩れ落ちていく。
さっきまで目の前にいた兄はもう跡形もなく、なす術もなく暗い穴の中に呑みこまれる。
底の見えない暗い世界に、どこまでも落ちていく。
どこまでも、どこまでも落ちていく。
暗闇の中で、どこからともなく聞き覚えのある怒号が飛んでくる。
───何でこんなこともできないんだよ!
───お前の代わりなんかいくらでもいるんだよ。
───こんなのは仕事してるって言わないんだよ! お前なんかは社会人失格だな。
イスや机を蹴り上げられる音。
書類を破かれてばら撒かれる音。
いくら経験しても慣れることのないものだ。
夢だと分かっていても、いつものようについ身を縮めてしまう。
もはや夢さえも自由に見れないとは。
またいつものような陰鬱な気持ちになる。
その後も走馬灯のように色々なことが脳裏に浮かんでくる。
───おめでとう、今までよくやってくれた。キミには今度のプロジェクトの責任者を任せようと思う。やってくれるよね?
それは、地獄のような生活の中である日突然差しこんだ一筋の光だった。
ある日豹変したように優しくなった上司。
降って湧いたような昇進話。
今思えばその時点で怪しむべきだったのだろうけど、その時はそんなこと微塵も考えてなかった。
ようやく自分が認められたことに、ただただ嬉しかった。
今まで耐えてきたことも無駄じゃなかったんだ、って。
だけどそんな甘い幻想も、一月あまりで消え去った。
任されたプロジェクトはいわば沈みかけの泥船。
初めから失敗することが目に見えていた。
後になって、上司が手に負えなくなった仕事を体よく自分に押し付けたのだと知った。
最初から、全て仕組まれたことだった。
そう気付いた時、もう誰のことも信用できなくなった。
自分の中で何かがぷっつりと切れたようで、その後の記憶は途切れ途切れだ。
自我を持たない人形みたいに、何事にもさしたる感情を持たずに生きていた。
そうすることで、本能的に傷付くことを避けていたのだ。
きっとこれからも、そうやって生きていくのだろう。
あぁ、もう二度と目を覚まさなければいいのに。
そんなことまで、つい考えてしまう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます