#2
まばらな拍手の音に誘われるように、舞台袖から水色のワンピース姿の女が出てきた。つい先ほどまで入口で受付をしていた女だった。彼女は客席に一礼し、グランドピアノのイスに腰かける。
そのすぐ後にクリーム色のチョッキ姿の男もヴァイオリンを手に出てきて、同じように一礼し、ステージの真ん中でヴァイオリンを構えた。
拍手の音が止み、会場に凛とした空気が漂う。二人はほんの一瞬見つめ合って大きく息を吸うと、二人の手が同時に動き出し、狭い客席いっぱいにジャズ調の軽快なメロディーが響き始めた。ピアノもヴァイオリンも軽やかでありながら力強い音だ。しかし二つの音は決してぶつかることなく調和し、お互いを引き立て合っている。伸びやかに自由に弾くヴァイオリンに、ピアノの華やかで軽やかな旋律が絶妙な間合いで溶けこんでいく。その様子は、あたかも二つの音が渦を巻き、一体となって客席を吞みこんでしまうかのような迫力である。
決して一流の演奏という訳ではないが、その音は人の心を動かす何かを持っていた。音の一つ一つが色とりどりの宝石の結晶のような輝きを持ち、聞く者の心の奥底まで洗い清めていく力を持っているかのようだった。
段々とピアノの音が小さくなり、ヴァイオリンのソロパートになる。少しずつテンポが速くなり、それに合わせてヴァイオリンの音も大きくなっていく。今まで以上に激しいその旋律は、先ほどのものとはまた違う魔物のような迫力を持っていた。弦を押さえる男の右手は、まるで意志を持った別の生き物のように動いている。
ヴァイオリンを弾くその男は、二十半ばといった顔立ちで、華奢な上に背もそこまで高くなかったが、その姿は凛としていてどこか堂々とした雰囲気を醸し出していた。大きく身をよじるたび、その姿が一段と大きくなる。先ほどまで時折聞こえていた小さな話し声もいつしか聞こえなくなり、観客たちはその見事な技巧に見とれ、激しくも優美な音に聞き入っていた。その中でただ一人、駿佑だけはどこか浮かぬ表情でその男を見ていた。
駿佑は相変わらず客席の一番後ろにいた。
今にしてようやく相手の真意が分かったような気がして、駿佑は浅はかな自分を呪っていた。
手紙を送ってきたのは、ステージの上でヴァイオリンを弾いている男だった。
ステージに立つ彼は、かつては毎日のように会っていた駿佑でさえも見違えるほどに変わっていた。
自身に満ち溢れるその姿に、もはやかつての根暗な面影はなかった。
要するに、彼は駿佑に自分の晴れ姿を見せつけたかっただけだったのである。
そんなしょうもない理由で自分は呼び出されたのかと思うと、駿佑は無性に腹が立った。
正直なところ、久しぶりの再会に少し心が浮き立っていただけに、その反動は大きいものだった。
嫉妬とも憎悪とも違う、よく分からないどす黒い感情が駿佑の中に広がる。
彼はただ考えなしに軽い気持ちで自分を呼びつけたのだろうが、その行動に裏があるような気がしてならなかった。
もがいてももがいても仕事も生活も八方塞がりのお前とは違って、自分は着実に人生の成功者としての道を歩みだしているのだ。
暗に彼からそう言われているような気さえしてくる。
確かに小さい頃から彼は利口で、自分とは違ってたいていのことは器用にこなす人間ではあった。
それには及ばずとも馬鹿なりに真面目にやってきたはずだ。
それなのに、自分は一体どこで道を間違えたのだろうか。
いつも以上に自分が惨めで不甲斐ない存在に感じられる。
いっそこの場から逃げ出したいとも思う。
高々十メートル足らず先のステージが、今の駿佑にはこの世の果てよりも遠い場所に感じられた。どこか自分に同じ世界のものとは思えない光景だった。
自分はただ呆然とそれ見ていることしかできないのだ。
きっとこれからもずっとそうなのだろう。
また一口、毒薬でも飲み干すかのように酒を胃に流しこむ。気づけば三杯目のジントニックのコップも空になっていた。空になった紙コップを、片手でぐしゃっとつぶす。と、気味の悪い声の耳鳴りに襲われ、思わず駿佑は頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。
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