『ショパンのワルツをもう一度』
駿介
#1
春には珍しく、朝から冷たい雨が降ったり止んだりを繰り返す日だった。
外濠沿いの桜はもう散り際で、雨に打たれて薄汚れた無数の花びらが水面や道の上に散らばっている。
濃紺のジャケットの胸ポケットからチケットを出し、そこに書かれた会場名と看板の文字を見比べる。コンサートホールみたいなしゃれた会場名だったから、どんな所だろうと来てみれば、目の前にあるのはただの地味で小さなライブハウスである。そのあまりに控え目な佇まいに、地図を見ながら来た駿佑も危うく通り過ぎるところだった。
申し訳程度に明かりの灯る階段を降りていくと、小さな机一つ置いただけの受付があり、二十代ぐらいの女が一人立っていた。
「ご来場ありがとうございます。招待券か何かお持ちですか?」
そう尋ねられて、駿佑はさっき見ていたチケットを手渡す。
「……川瀬様、ですね。先にお代は頂いておりますので、このまま中にお入りください」
女性はチケットと名簿らしきものを照らし合わせ、確認が済むと右手の重厚そうな防音扉を指差した。駿佑は軽い会釈だけして、重たいその扉をゆっくりと開けた。
中の客席は駿佑の想像以上に狭かった。客席といっても立ち見で、それでも三十人も入れば満杯になってしまいそうな広さである。客は駿佑の他に七、八人いた。
隅にあったカウンターでジントニックを頼み、その紙コップを片手に、客席の一番後ろの壁にもたれかかる。置き場に困った紙袋を仕方なく両足の間に置く。
開演までのわずかな時間、駿佑はまだ暗いステージを見るともなしに見ていた。
二週間前、駿佑の元に何の前触れもなく一通の手紙が届いた。
住所を宛名も書きなぐられたような乱雑な字で、封筒の裏には差出人の名前だけがこれまた汚い字で書かれていた。
差出人は駿佑もよく知っている人物だった。その人物と駿佑の付き合いはもう二十年を超えるのだが、お互いに社会人になってからは疎遠になっていたのだった。
わざわざ手紙を送って来るとは一体何があったのだろうか、と急いで封を切ってみれば、中から出てきたのはチケット一枚だけで、他には便箋の一枚すらも入っていなかった。
今思い返しても、つくづく身勝手な手紙だと思う。
何年かぶりに気まぐれで連絡をよこしてきたかと思えば、その中身が紙切れ一枚だけとは、さすがに薄情過ぎるのではないか、と駿佑は未だに納得がいっていない。手紙を書くのが面倒だったとしても、せめて電話やLINEの一つぐらいはしてきても罰は当たらないはずだ。いくらよく見知った間柄とはいえ、最低限の礼儀ぐらいはあるはずではないか、とも思う。この人間は自分の立場を利用して、いつも駿佑に一方的に用件を言ってくるのである。その理不尽にこれまで散々付き合わされてきたから、この手紙にも駿佑もさして驚きはなかった。初めはこんな手紙など無視するつもりでいたのだが、さすがにそれは送ってきた相手に悪い気がして、こうしてここまで仕方なく来てしまったのだ。
本当のところは、駿佑も心のどこかでそれを待ち望んでいたところがあるのだろう。たとえどんなに無遠慮な連絡であっても、久しぶりに届いたそれは少なからず駿佑の心を浮き立たせた。その実今日が来るのを楽しみにしていたのだが、それを素直に認めてしまうと自分の負けを認めることになる気がして、なるべくその感情に気付かないようにしているのだ。
しょうがなく来てやっただけ。
妙にそわそわしている自分に、駿佑は幾度となくその言葉を呪文みたく言い聞かせる。
何だか差出人に全てを見透かされていた気がして、得意げな相手の顔が目に浮かぶようだ。まんまとはめられた気がして、なんとなく悔しい。
これを送ってきた人間は一体どういうつもりなのだろう。
こういう場所を駿佑が好まないことはよく知っているはずなのに、それを承知の上でチケットを送ってきたのである。駿佑はその真意が知りたいと思う。駿佑の予想が当たっていれば、恐らくその人物もこの場にいるはずである。客席に姿がないところを見るに、今頃は楽屋でいそいそと準備をしているのだろう。閉演になった後できっちり事情を問い詰めてやろう、と考えていると、今まで暗かったステージにスポットライトが当たり、その光の中に大きなグランドピアノが姿を表した。
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