第746話 side:ニーナ

 ――アーデジア王国は混沌の時代を迎えていた。

 王族が事故と病魔で次々と亡くなる事態が発生し、跡取りはまだ幼いクリス王女ただ一人となってしまった。


 しかし、そのクリス王女は魔王に成り代わられていた。

 いや、最初から王族の連続不審死事件自体が、人類と敵対する魔王の計略によるものだったのだ。


 アーデジア王国と親しい関係にあったリーアルム聖国の指導者である聖女リリクシーラは、事態の真相をいち早く見抜いて王都アルバンへ来訪。

 彼女の活躍によって、王城を支配していた魔物達は討伐されることになった。


 王族の不在によりアーデジア王国は不安定な状況に陥るかと思われたが、リーアルム聖国の介入によってアーデジア王国内の有力貴族達による貴族会議が発足し、新たな王の選定までの間彼らが王国の指揮を執ることになった。


 そこまではよかったのだが、貴族会議を支えていた聖女リリクシーラが、魔王の残党を追って行方不明となったことで貴族会議は大きく力を失い、再びアーデジア王国は緊張に包まれていた。

 不安定な情勢を勢力拡大の好機と捉えていた各地の貴族達は、この聖女リリクシーラの不在を狙い、本格的に事を起こす準備を進めていた。


 そして陰謀渦巻くアーデジア王国に、大きな黒い化け物が現れた。

 三つの首を持つ巨大な蜘蛛。

 その姿は、聖神教の聖典にてかつて世界を一度破滅に追い込んだ魔物だと伝えられている、最悪の魔王バアルそのものであった。


 真っ直ぐ王国内を突っ切って王都アルバンへ辿り着いた魔王バアルは、大量の蜘蛛の魔物をばら撒き、その日の内にアルバン王国の国としての機能を崩壊させてしまった。

 唯一幸いだったのは、アーデジア王国の貴族間の争いが表面化する前に魔王バアルが到来したことであった。

 

 頑強な城壁を有する王城は住民達の避難所と化していたが、しかしそれも、魔王バアルの前には気休めにしかならないことは、逃げ込んできた者達の誰もが理解していることであった。

 外では魔王バアルの配下の群れが暴れているらしく、城壁の崩れる音や、人間の悲鳴がひっきりなしに響いていた。


「一体全体どうなってる……」

「魔物の王は数百年に一度しか現れないんじゃなかったのか!」

「アルバンは呪われてるんだ……もうお終いだ……」


 逃げ込んできた住民達は、皆頭を抱えて、現状を嘆くばかりであった。


 猫の耳を持つフェリス・ヒューマ、ニーナもその一人であった。


「終わった……終わったにゃ……ニーナ、ここで死ぬんだ……」


 頭を押さえて震えるニーナの肩へと、桃色の長い獣の耳が、彼女を勇気付けるように掛けられる。


「ぺふぅ……」


 ニーナの友人でもある桃玉兎である。


 ニーナと桃玉兎は、かつて砂漠の地ハレナエにてイルシアに助けられ、彼と奇妙な旅路を経験してきた仲である。

 彼女達はイルシアと別れた後はアーデジア王国の辺境の街で暮らしており、そこの小さな酒場『猫の耳亭』にて住み込みで働いて生活を送っていた。


 ニーナ達は店主より『アルバンの飲食店や、流行りの酒、調味料を調査してきてほしい』との頼みを受けて、王都アルバンへとやってきたばかりであった。

 外の世界をまともに知らない彼女達に王都観光を楽しんでもらうための、店主の粋な計らいだったのだが、このときばかりはタイミングが悪かった。

 ニーナ達が訪れた翌日、王都アルバンは魔王バアルの被害の中心部となった。


「食料がもう尽きる……誰かが外へ取ってくるべきだ!」

「自殺行為じゃないか!」


 城内に罵声が響く。

 閉塞感と魔物の恐怖は強いストレスとなり、避難してきた者達の精神も限界を迎えていた。


「そこの獣人! その肥えた玉兎を食わせろ!」


「ぺふぅっ!?」


 指を差され、桃玉兎が真っ直ぐに耳を伸ばす。


「ダ、ダメです! タマちゃんは冒険者ギルドからも正式に従魔として認められていて……そ、それに、怪我人の治療を行ったのも、皆さんの清潔さを保っているのも、タマちゃんの魔法なんですにゃ!」


 桃玉兎は白魔法の〖レスト〗や、対象を清潔にする魔法〖クリーン〗を持つ。

 この状況下において重宝しており、その愛らしい姿からも皆の不安を取り除くのに一役買っていた。

 ただ、食糧問題への不安が可視化されるにつれて、真っ先に切り捨てられる対象に、人型でない玉兎が選出されるのもまた自然なことであった。


「多少役に立つからって、そいつに飯を食わせてるのはおかしいだろ! とっとと間引いて食糧にしちまうべきだ!」


「お、お願いですにゃ! タマちゃんを食べないで……! タマちゃんは、本当に大事な友達で……! た、タマちゃんを見逃してくれるんだったら、ニーナを食べてもいいにゃ!」


 ニーナが必死に玉兎へと抱き着く。


「獣人だからって人間を食えるわけねえだろ! おい、誰か剣を貸せ! 俺があのデブ兎を解体してやる!」


 男が怒声を上げた正にそのとき、城壁が轟音と共に崩れた。

 大穴のすぐ先には、苦痛に歪む人面を背中に貼り付けた、人間よりも一回りは大きい蜘蛛の化け物が立っていた。


 ニーナを恫喝していた男が、現れた蜘蛛の化け物に頭部を喰われる。

 刹那の静寂の後、城内を悲鳴の声が木霊した。

 一目散にその場にいた者達が逃げ出していく。


 ニーナは恐怖から玉兎へと抱き着く腕の力を強める。

 逃げなければならないと頭では理解していたが、恐怖で足が竦んで動けなくなっていた。


「オオオオオオオオオオ……」


 蜘蛛の化け物が、背中の人面から鳴き声を上げ、ニーナと玉兎を見下ろす。


「ああ……もう一度、ドラゴンさんに会いたかったな……」


 ニーナは蜘蛛の化け物を見上げながら、ぽつりとそう零した。


「〖衝撃波〗!」


 壁の外から飛来した斬撃が、大蜘蛛の背中を斬った。

 大蜘蛛が左右に倒れ、その合間から黒い体液が噴出して辺りに散らばった。


 壁の外から黄金の剣を手にした、銀髪の大柄の男が姿を現した。


「た、助けてくださった……のですか? ありがとうございますにゃ。あの、あなた様は……?」


 ニーナは玉兎に抱き着いたまま、目を丸くして、銀髪の男へと尋ねる。

 彼女は小型の蜘蛛の化け物を人間が追い払う様は見たことがあるが、このサイズの蜘蛛の化け物を仕留めた者を見るのは初めてであった。


「竜狩りのヴォルクだ。王都を荒らす蜘蛛共の処分に来た」


 銀髪の男、ヴォルクはそう口にすると、刃を振って血を飛ばす。


「外から、この都市にいらしたのですか? 確かにヴォルクさんはお強いようですが……でもあの蜘蛛は、人間がどうこうできるような相手じゃありませんにゃ。見てください、外を」


 ニーナは崩落した壁へと歩みより、王都の街並みを眺める。


「オオオオオオオオオ……」

「オオオオオオオオオ……」


 先にヴォルクが討伐した個体よりも遥かに大きな蜘蛛の化け物が、王都を荒らして回っている。


 そして更に遠くには、ヒキガエルと猫、冠を被った男の三つの頭を持つ、蜘蛛の化け物の親玉の姿が見える。

 あれが魔王バアルである。

 今は配下が暴れる様を静観しているだけだが、アレが本格的に殺戮を始めれば、王都中の人間はすぐさま命を落とすことになるだろう。


 ニーナも、ヴォルクが腕の立つ人間であることは理解した。

 人間の中でも最上位に入る強さの持ち主なのだろう、と。

 ただ、それでも、今この王都アルバンへやってきたというのは、ただの自殺行為としか思えなかった。


「安心せよ、我はただの露払いのようなものだ」


 ヴォルクがそう口にした次の瞬間、街で暴れていた大きな蜘蛛の化け物の身体が、黒い飛沫をぶちまけて破裂していった。

 同時に化け物の立っていた地面には、巨大な爪で抉られたかのような跡が付いている。


「嘘……なにが……」


 ニーナが呆然と王都を眺めていると、魔王バアルの三つの首の内、猫の頭部がぴくりと動き、上空を睨む。


 唐突に魔王バアルの巨躯へ爪痕が刻まれた。

 魔王バアルは何かに突き飛ばされるように背後へ跳んで、体勢を崩した。


 高速で現れた巨大な黒い竜が、魔王バアルへと尾を叩きつけての追撃をお見舞いした。

 その衝撃で、王都全土の大地が揺らぐ。


 赤黒いゴツゴツとした体表に、大きな悪魔を思わせる巻き角。

 頭部から背に掛けて、青白い鬣が伸びている。

 翼は背全体を覆うほど広く、不気味な瞳のような模様がついている。

 太い尾の先には大きな水晶がついているのだが、それは眼球のような外観をしていた。


「な……なんなんですか、あのドラゴン……」


 魔王バアルを攻撃した。

 そのことはニーナにもわかった。

 ただ、しかし、だからといって、人間に与しているとも確証が持てなかった。


 しかし、何故なのか、ニーナは恐ろしい黒い竜を目にして、自分が強い安堵の感情を覚えていることに気が付いた。

 あの悪魔めいた竜が、ニーナにはなんとなく優しげなふうに映ったのだ。

 彼女自身、自分の感想が理解できないでいた。


「ぺふ……?」


 桃玉兎も黒い竜を目に引っ掛かるものを覚えて、その威容へと釘付けになっていた。

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