第640話
幸先のいいスタートを切れた。
これは案外、余裕を残した状態でヘカトンケイルを倒し切れるかもしれねぇ。
ミーアの存在も大きいが、時間が経てば経つほどトレントの〖死神の種〗が響いていくはずだ。
ヘカトンケイルは遅く、攻撃にも決定打を持たない。
そのため相手をMP切れまで追い込んで勝ち筋を潰し、撤退を強いる戦法を取っている。
戦いが続いているだけで持続してMPを削り続けるトレントの〖死神の種〗は、完全にヘカトンケイル対策になっていた。
以前戦ったときから、トレントの〖死神の種〗は使えると思っていた。
だが、実際減少し続けていくヘカトンケイルのMPを確認し、これは予想以上の効果があるらしいと、俺はそう踏んでいた。
仮にトレントが今の能力のまま伝説級であれば、単騎でヘカトンケイルを完封できていてもおかしくない相性差だ。
おまけにヘカトンケイルは速度がないため、相手の攻撃を受けた上で、攻撃の際の隙を突いて殴り返すという戦い方が多い。
しかし、ミーアの技量であれば、ヘカトンケイル相手に一方的に攻撃を通せる機会が多いはずだ。
そもそもヘカトンケイルの性能自体、複数を相手取るには適していない。
剣士の完成形ともいえるミーアの動きに対応しようとすれば、俺に対して大きな隙を晒すことになる。
だが、俺に意識を割きながら、ミーアの動きに対応することもまた至難のはずだ。
俺はヘカトンケイルの周囲を飛び回る。
アロが狙いを定めて〖ダークスフィア〗を放つ。
俺も奴の死角に入れば〖アイディアルウェポン〗の武器創造能力で出した、夢幻竜の大鎚〖オネイロスマレット〗の一撃を叩き込む。
【〖オネイロスマレット〗:価値L(伝説級)】
【〖攻撃力:+130〗】
【青紫に仄かに輝く大鎚。】
【夢の世界を司るとされる〖夢幻竜〗の骨を用いて作られた。】
【神の世界の楽器を打ち鳴らすために天使が使うと、そう言い伝えられている。】
【この武器の一撃は、対象の物理耐性、防御力を瞬間的に減少させる。】
〖オネイロスマレット〗は、防御の高い相手にもダメージを通しやすい特異な効果を持っている。
前回も検証したが、対ヘカトンケイルにはこれが一番だった。
〖竜の鏡〗で前脚を手に変える必要があるので若干MPは嵩むが、それでも〖オネイロスマレット〗を使う利点の方が大きく上回る。
〖オネイロスマレット〗でぶん殴った直後、ヘカトンケイルが俺へと大剣を伸ばす。
だが、上空へ逃げ、刃を寸前で躱すことができた。
武器を使うのはリーチが取れるのでいい。
それにヘカトンケイルも、ミーアの牽制を受け、こちらに対応しきれないでいるようだった。
ヘカトンケイルからも、ミーアやハウグレー、ヴォルクのような、剣士を本分とするもの特有の、ステータスを抜きにした強さを感じることがある。
しかし、ヘカトンケイルは素早さに欠け、また巨体である。
ミーアはヘカトンケイルに比べればはるかに小さく、素早さでも大きく上回っている。
そして、剣士としての力量も、恐らくはミーアの方が勝っている。
それに、前回戦った感触として、記憶をなくし、自我さえ危うい今のヘカトンケイルは、恐らく過去の剣士だった際の技術が損なわれている。
前に微かに〖念話〗に応じた際には、恐ろしくキレのある剣技を放ってきた。
しかし、今のヘカトンケイルにそれはない。
『これは案外、余裕を残せる戦いになるかもしれねぇ……』
実際、塔の中から何が出てくるかはわからねぇ。
中には次のヘカトンケイルがいました、なんてことがあっても不思議ではない。
理不尽ではあるが、神の声は理不尽の権化みたいな奴だ。
俺がとっくに詰んでる状況で、神の声が俺の無駄な足掻きを楽しんでいるなんてことも、全然考えられる。
余裕を残せるなら残しておきたい。
塔の中にまだ強敵が潜んでいたり、そもそも塔がこのンガイの森からの脱出に関係なかった場合、ミーアを外に連れ出すのは絶望的になる。
そのときにまだ余力が残っていれば、休憩を挟まずに次の戦いに向かうことだってできる。
ミーアがヘカトンケイルの間合いの内側に入り込みながら、大剣を振るう。
ヘカトンケイルは背後に退きながら、自身の間合いでミーアへ斬り掛かろうとする。
意識が完全にミーアに向いている。
俺はヘカトンケイルの死角に回り、〖オネイロスマレット〗を振りかぶった。
ミーアの大剣が、宙を斬った。
ヘカトンケイルの姿が急に消えたのだ。
〖影演舞〗である。
俺は一瞬、反応が遅れた。
ヘカトンケイルが間合いを取って大剣を構え直したため、迎撃するつもりらしいと自然と思い込んでしまっていた。
〖影演舞〗のためのブラフだったのだ。
俺の足許から、ヘカトンケイルの巨体が姿を現した。
ミーアと斬り合うと見せかけてこっちを標的に取ってきた!
振っている最中だった〖オネイロスマレット〗の重量に手が取られ、ヘカトンケイルに身体を向けられない。
このままぶん投げ、反動で逃れるのも手だったが、〖アイディアルウェポン〗はそうポンポンと使っていれば、MPの消耗が馬鹿にならない。
特に今は、長期戦前提のMPの削り合いだ。
簡単に手放していいものではない。
俺は翼で空中に身体を押し上げ、尾でヘカトンケイルの刃を防いだ。
鱗が斬られ、肉が抉られる。
激痛が走った。
しかし、尾であれば止血程度の〖自己再生〗でいいい。
ダメージ自体も低く済む。
俺は大剣の威力を利用し、高度を上げてヘカトンケイルから距離を取った。
「余裕はない! 私か君が回復にMPを使わされれば、その分だけ大きく不利に傾いていく! ヘカトンケイルの恐ろしさを実感するのは、前半じゃない。自分のMPの底が見え始めてきて、そこでようやく勝ち筋が潰えているのだと気づかさせられる。君も、それで一度撤退を強いられたはずだ。慎重に、常に全てのスキルを警戒しろ! 全て絶対に捌き切るという気持ちでいなければ、ヘカトンケイルには勝てないかもしれない! ここでしくじれば、私も君も、後はないぞ!」
……甘い考えが出ちまったか。
全て絶対に捌く、という意識は確かに薄まっていた。
そう、今この状況も、そこまで俺達に有利だとは言い難い。
俺とミーアの片方が戦地に立てなくなった時点で、一気に戦況が厳しくなるのは見えている。
ヘカトンケイルは毒だ。その恐ろしさは、苦しさを感じて初めて実感する。
そしてそのときにはもう手遅れなのだ。
今回そうなれば、次の回復までミーアが狂神に侵食されないかは神頼みだ。
もしも狂神が進行した場合、ミーアは敵になり、ヘカトンケイルはミーア抜きで突破することになる。
それはもう、ほとんど詰んでいるといって間違いではない。
間合いを逃れ、体勢を立て直さないと……!
それから、さっきまでより〖影演舞〗による奇襲への警戒を強め、反撃を絶対に受けないタイミングを探り、慎重に動く必要がある。
言葉にするほど簡単ではない。
刹那の判断ミスが敗北に繋がる。
そんな状況が、ヘカトンケイルの強いる持久戦のせいで、延々と続くのだ。
だが、やるしかない。
余計なことは考えるな。
今、終わった後のことを考慮する余裕なんてねぇ!
俺の胸部に、激痛が走った。
鱗が砕け、血が溢れる。
「りゅっ、竜神さま!」
アロが悲鳴を上げる。
ヘカトンケイルの〖次元斬〗だった。
立て続けに攻撃を受けることになるとは思っていなかった。
だが、さっきまで上手く戦えていたのは、ヘカトケイルの意識がミーアに集中していたからに過ぎないのだと痛感させられた。
ヘカトンケイルは、削り合いに持ち込む達人だ。
まともに狙われれば、無傷で安全に、かつ安定した対応を、なんて甘えた考えは通用しない。
変に引き気味に戦おうとすれば、むしろ〖次元斬〗の攻撃を一方的に通されかねない。
〖影演舞〗でミーアから距離を取られたのがマズかった。
ヘカトンケイルを挟み撃ちすることに拘るより、俺とミーアが離れすぎないように動く方が正しかったのかもしれねぇ。
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