第592話

 周囲が安全なのを〖気配感知〗で確認した後、俺は〖ウロボロス〗の双頭の、両方の顎を地へとつけて口を開けた。


『もう終わったぜ。出てきていいぞ』


 俺は口の中に保護している、アロとトレントへと〖念話〗で声を掛ける。


『主殿……ご無事で何よりです……』


 木霊状態のトレントが、俺の舌の上を這ってよろよろと姿を現した。

 トレントは案の定、俺の唾液塗れになっていた。


『大変な目に遭いましたな主殿……まさか、あんな化け物がいるとは』


 ト、トレントも大変な目に遭ったな。

 俺も悪いとは思っている。

 だが、あのときは本当に他に手がなかったのだ。


 まさかLランクの最大レベルがぽんと出てくるとは思っていなかった。

 A+ランクくらいならば、今の俺のレベルならばどうとでもなると思ってしまった。


 オリジンマターが出てきた以上、あまりこのンガイの森を迂闊に動き回るべきではないが、今はとにかく時間が惜しい。

 リスクを恐れてうだうだしていれば、元の世界に戻るまで時間が掛かりすぎてしまう。

 結局、ンガイの森の危険性がわかっても、これまで同様に飛び込んでいくしかない。


 レベル上げは、自分と同等か、それ以上の丁度いい相手さえ見つければ、そう時間が掛かることではないのだ。

 急ぐならば危険を取らなければならない。


 謎の塔だって、絶対危険に決まっている。

 すんなりと元の世界に戻れるわけがねえ。

 それでも、俺はとにかく進展を望んで動き続けるしかないのだ。


 トレントは立ち上がろうとしたが、俺の唾液で滑ってその場で転倒した。

 ……口の中に放り込んで散々〖転がる〗で移動したため、平衡感覚が狂っているのだろう。


 トレントから漂う、乾燥した唾液が少し匂う。

 俺は目を細めた。


『……主殿の匂いですからな。私は構いませんが、アロ殿にはそのような素振りは見せないように』


 トレントが地面に手をついたまま、ジロリと俺を睨んだ。


『わ、悪いトレント……』


 俺はトレントに謝った後、口の中へ〖念話〗で呼びかけた。


『アロ……大丈夫か? 出れるか?』


 さっきから全くアロが出てくる様子がないのだ。

 俺が呼びかけると、ようやくアロが出てきた。

 アロが完全に出たところで、俺は〖竜の鏡〗を解除してオネイロスの姿に戻った。


 アロは白い頬を微かに赤くして、人差し指で頬を掻いた。


「……少し、竜神さまの口の中、慣れてきた気がします」


 アロはそう言って、自身の手の甲へと鼻を近づけ、すんすんと匂いを嗅いだ。

 俺とトレントは、アロの言葉に思わず凍り付いた。


『アロ殿……調子が悪いのでは? 一度主殿に〖フェイクライフ〗を掛けていただいた方が……』


「へっ、変な意味じゃなくてその、安心するの!」


 アロは顔を真っ赤にし、トレントへとそう叫んだ。


『そ、そうですか、アロ殿……。そうですね、うむ、その、私も安心するような気はしますので、そうおかしなことではありません。気を落とさないでくだされ』


「別に落ち込んでないっ!」


 ……な、何はともあれ、全員無事でよかった。

 

 アロとトレントを洗ってやりたいと考えて周囲を見回し……気が付いた。

 このンガイの森の上空を飛んだとき、一切川が見つからなかったのだ。

 一面に変な木が並んでいるだけだった。


 まさか、ここには川がないのか?

 の、飲み水の確保ができねえ。

 いや、飯も水も我慢しようと思えば数日は持つが……。


『〖アクアスフィア〗』


 トレントの頭上に大きな水の球体が現れた。

 水の球体が爆ぜて、トレントが水浸しになる。

 トレントは川に入った犬のように身体を振るい、水を落とした。


『ふう……さっぱりしましたぞ』


『トッ、トレント、そんなことできたのか!?』


『……主殿は確認できるのでは?』


 た、確かにトレントはそんなスキルを持っていたか。

 長らく使っているところを見かけなかったので、なんとなく忘れていた。

 これでトレントから水を半無限に補給できる。

 一家に一台トレントさんだな。


『アロにもやってやった方が……』


 そのとき、アロの輪郭が崩れ、黒い光の塊になった。

 すぐに元の姿へと戻る。


「大丈夫です! これで綺麗になりました!」


 つ、強い……これがワルプルギスの能力か。

 ボロボロだったはずのドレスもすっかり元通りになっている。


 あれ……そういえば……。


『アロ……お前、嗅覚戻ったのか?』


 さっき、俺の唾液の匂いを確認していたようだった。


「実はさっき気が付いたのですが……戻ったみたいです」


 アロが笑顔を浮かべ、そう言った。


『ほっ、本当か!?』


 俺はずいと、アロへと顔を近づけた。


「はいっ! 元々、完全にないというよりは薄くなった感じで、進化のたびにちょっとずつマシにはなっていたのですが、今回の進化で一気に戻っていたみたいです」


 アロは言いながら、小さく呼吸をしていた。

 息の感じ方なども細かく変わっているのかもしれない。

 これまでもゆっくりと変化していたので、気が付くのが遅れたのだろう。


『よ、よかったなあ、アロ……。もう、もしかしたらずっと感覚器官が戻らねぇんじゃないかって、不安だったんだ』


 俺は胸が熱くなり、涙が込み上げてくるのを感じていた。

 目に雫が溜まる。

 アロは寝ることもできないし、食事を楽しむこともない。

 アロを〖フェイクライフ〗でアンデッドとして蘇らせてよかったのかと、俺はいつも悩んでいたのだ。

 

「りゅっ、竜神さま、大袈裟です!」


『そろそろ一旦食事にしておくか。アロの味覚が戻った、祝いも兼ねてな』


「いいのですか? ですが、時間が……」


『先は急ぐが……前の飯から間が空いている。色々あって、皆疲れただろう。せっかく材料も手に入ったことだからな』


 俺が口にすると、アロが首を傾げた。


「えっと……材料、ですか?」


『ああ、どのくらい回収できるのかはわからねぇけどな』


 俺は〖転がる〗で薙ぎ倒してきた道を振り返った。

 一応空も睨んで、オリジンマターの姿がないことを確認しておく。

 ……いつかは再戦すると決意したが、今すぐは絶対に会いたくねえ。


 あの高さだったから肉がどうなっているのかは怪しいが、まああいつらもA+ランクのモンスターだ。

 塊が多少は残っているだろう、と思いたい。

 そもそもあいつらの身体を肉と形容していいのかどうかも、少し怪しい気はするが……まあ、食えないことはないはずだ。

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