第530話
アルアネはゾンビフェンリルの背を蹴って俺へと跳び、腕を振り上げる。
彼女の爪が真っ赤な血に覆われ、長く、鋭くなっていく。
血の刃……〖毒血狂爪〗とやらのスキルだろう。
アルアネは恐ろしい奴だが、ステータスでは俺に大きく分がある。
一対一ならまず押し負ける相手じゃねえ。
そのとき……空の方から気配を感じた。
目をやれば、蠅のような羽を持つ、四つ腕の男が凄まじい速度で俺へと飛来してくるところだった。
ベルゼバブの、人化状態だ。
嘘だろ……あまりに、タイミングが良すぎる。
ベルゼバブの眷属の目があるにしても、この霧の地で独立して動いていて、必要なときにここまでスムーズに合流ができるとは思えない。
いや……違う、アルアネに誘導されたのだ。
これで奴の思惑がようやく掴めた。
アルアネは元々、フェンリルをゾンビ化させて捕まえた後は、すばやくリリクシーラと合流する手筈だったはずだ。
つまり、リリクシーラの居場所を知っていたのだ。
予想外のタイミングで単体で俺と鉢合わせしたアルアネは、アトラナートの回収を後回しにし、アトラナートを餌にして、わざと会話が上手く成立しない振りをして時間を稼ぎ、俺を連れてリリクシーラの許へと移動することを選んだ。
そうとしか考えられねえ。
リリクシーラからしても、貴重な戦力を各個撃破されるより、集団で叩く方を優先するだろう。
表層の言動とステータスで決めつけていたが、知性があるのか怪しいなんてもんじゃない。
アルアネはとんでもねえ切れ者だ。
こんな意思を持った暴風のような化け物が、素直にリリクシーラに従っている様に見えるのが気に掛かるが……。
「いたいたァ! 〖ダークネスレイン〗!」
ベルゼバブの背後に紫の魔法陣が浮かび上がり、紫光の雨が俺達へと降り注ぐ。
俺は背後へ跳んだ。アルアネも逆側へと跳んでいた。
両者の間の地が光弾の嵐に荒らされて土煙が舞った。
周囲を見回す。
随分離れた位置に飛竜が見えた。
その上には、白髪の女の姿が見える。リリクシーラだ。
リリクシーラと並んで、アルヒスと見知らぬ男が乗っている飛竜も確認できた。
俺はリリクシーラの翡翠の目を睨み返した。
リリクシーラは速度のある人化ベルゼバブを先行させたのだろう。
彼女の参戦まではまだ猶予がある。
アルアネは確かに強いが……エルディアの代わりにはならねえ。
ベルゼバブもアルアネもこの場で片付けて、リリクシーラもぶっ倒す。
アトラナートの安全を確保してからあいつを捜し出し、ヴォルク達を助けに向かう。
それでこの戦いは終わりだ。
どんな勝算があったのか知らねえが……リリクシーラ、この戦いは無謀過ぎたぞ。
「りゅ、竜神さま、私達は……」
俺の背に乗るアロが、不安げに声を掛けて来る。
『俺の上から絶対に降りるんじゃねえぞ! こいつらは、アロ達の手に負える相手じゃねえ! 気を抜いたら一瞬で殺されちまうぞ!』
ベルゼバブが俺の上空を飛び、背後へと回った。
それと合わせる様にアルアネも動き、地面を蹴って正面から飛び掛かってくる。
「クハハハハハッ! 悪く思うんじゃねぇぞ、この姿でセコセコ動き回るのは俺様の性に合わねぇが、聖女様の御命令なんでなァ!」
俺は尻目に背後を見る。
再びベルゼバブの背後に大きな魔法陣が浮かび上がっていた。
ひたすら飛行して速さと小さい人化状態の身体を活かして背後を取って、人化でステータスの減少しない、かつ避け難い範囲魔法攻撃の連打……か。
確かにリリクシーラの好きそうな作戦だ。
『だが、関係ねぇよ!』
俺は最大出力で〖グラビティ〗を放った。
俺を中心に黒い光が広がる。
「ぐっ……!」
宙にいたベルゼバブが高度を落とした。
羽で必死に地面に叩きつけられないように抵抗しているようだった。
あれくらいなら落とせるかと思ったが、ベルゼバブとは距離があるので重力の拘束力が弱くなっているようだった。
しかし高度の維持に必死になっているらしく、〖ダークネスレイン〗の魔法陣が消失した。
正面から来ていたアルアネに対しての効果は絶大だった。
地面に突っ伏し、片膝を突いていた。
動きが完全に止まった。
俺は大きく爪を振るい、アルアネ目掛けて振り下ろした。
この一撃で……確実に殺す!
アルアネはじっと、あの探るような瞳で俺を見ていた。
絶体絶命の危機を前に、アルアネの顔の、あの張り付いたような笑いが消え、無表情になっていた。
アルアネは強引に身体を起こし、腕を前へと突き出した。
腕の先に紫の光が宿り、膨れ上がり、光の球体となった。
最後に俺へと攻撃するつもりか?
だが、あんな攻撃の一発程度、俺にとって大したダメージではない。
……このまま突っ切って、アルアネの身体を引き裂く。
「〖ダークスフィア〗」
アルアネの手許で、紫の光が破裂した。
彼女の小柄な体躯が暴風に押し出されて宙を舞う。
自爆して、致命打への回避として使いやがった。
悪くない使い方だったが……俺の爪の方が、〖ダークスフィア〗の爆風よりも遥かに速かった。
俺の爪が、アルアネの身体を引き裂いて弾き飛ばした。
アルアネの身体が捩じれ、片腕が地面へと落ちた。
血の道筋を作りながらアルアネが転がる。
……軌道が逸れて、仕留め損なったか。
致命傷には違いないが、あいつの得体の知れなさを考えると、何があるかわからない。
とっとと倒しておきてぇ。
「一発もらったぜ!」
〖グラビティ〗の拘束が解けたベルゼバブが俺の横を駆け抜け、その際に腹部と頬へと爪を立てた。
だが、鱗に薄い線が走ったばかりで、大したダメージにはならなかった。
人化中は攻撃力が半減している。
今のベルゼバブの物理攻撃は無視してよさそうだ。
「チィッ! そろそろ元の姿で暴れてェんだがな……おっと、〖悪食家〗とやらも来ちまったか」
ベルゼバブの目線を辿ると、リリクシーラとはまた別の方面から飛竜が来ていた。
上には、小柄な老人と、聖騎士の男が乗っている。
リリクシーラの配下なのだろうが……あいつら、強いのか?
通常の飛竜でこちらに無警戒で向かってきている上に、二人からも……凶悪な魔獣や強者から感じるプレッシャーのようなものが全くない。
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