第524話 side:アトラナート

 私がアロを糸で引き戻した方が、一瞬速かったと思った。

 だが、甘かった。

 引き離せたと思った瞬間、アルアネの赤い爪が長さを増していたのだ。


 アロは腹部を裂かれ、地面へと投げ出された。


「あ、ありがと……アトラナート……」


 アロが弱々しく私へと礼を口にする。

 私は喋るのは苦手なので、小さく頷いた。

 何故か私が声を出すとあの右の主がバカみたいに喜ぶので多少声を出す癖をつける様には心掛けてやっているが、さすがに今はそんなところに気は回せない。


 アロは必死に〖自己再生〗をしているらしく、裂かれた腹部が急速に繋がっていた。


 しかし、ダメージ量を考えれば付け焼刃の回復ですぐさま戦地に復帰できる状態ではない。

 ……というよりも、あの化け物とまともに戦う選択を取ったこと自体が間違いだったのかもしれない。


 恐らく……アルアネのあの伸縮自在の赤い爪は、血の塊だ。

 正確には、血液をベースに、スキルで魔力を用いて硬度と鋭利さを強化したものだろう。


「アルアネはね、アルアネね、魔物の血は、本当にダメなの、飲みたくないの。すっごく辛いの。息が詰まりそうで、苦しくて、噎せ返って……本当に嫌なの。でも、聖女様のためだから、仕方ないの」


 アルアネが、我々へと向かって来る。

 品定めする様な目だった。

 すぐ後ろには、例のアレクシオという騎士のアンデッドもついている。


 表情や声色はちぐはぐで、心情が全く読めない。

 本当に不気味な相手だった。

 子が親に媚びる様な甘い猫撫で声で、瞳には同情や憐憫の色が込められている。

 ただ、口の形だけは取り繕いようもなく遊び半分で獲物を弄ぶ魔物のもので、恐らくはソレだけが真実なのだろう。


 或いは、アルアネは何も考えていないのかもしれない。ああ、きっとそうだ。

 本能のみに従って生きるのは、魔物には珍しいことじゃない。

 どうやらニンゲンにもそういう個体がいるらしい。


 あの木偶もまだダメージが抜けていないし、アロも戦闘復帰できる状態ではない。

 相手は、Aランクに片足突っ込んでいそうな化け物に、その配下のB級上位相応のアンデッド。


 ここから一体、どうしろというのか。


 一応、主に保険で三つつけておいた小型〖ドッペルコクーン〗は、危機を知らせるために二つ目を既に消しておいた。

 これで主には、こちらに何かしらの異常事態があった、ということは伝わったはずである。

 ……もっとも、この霧の地ですぐに駆け付けてもらえるとは思えない。 


 ……この状況で、果たしてどうするのが最善なのか。

 敵は二人、こちらは重傷二体と私の三体。

 全滅以外に、可能性があるのだろうか。

 私は純粋なアロや、切ったら年輪が一つもなさそうなあの陽気な木偶に比べて、多少は悪知恵が回る自信がある。

 何か、抜け道は……。


「…………」


 私は慌ただしく起き上がったばかりのアロへと指先を向け、糸を飛ばした。


「え……?」


「アロ、トレントヲ連レテコノ場カラ離レロ。私ガ、時間ヲ稼グ」


 アロは大慌てで首を振る。


「ダ、ダメ、そんなの! アトラナートが……!」


「速サガマシナノハ私ダ。負傷ガ薄イノモナ。ソレニ、今ノオ前達デハ荷物ニナル。ソッチニ転ガッテルデカイ的モ、トットト小型化サセテ連レテ行ケ」


『ア、アトラナート殿……?』


 トレントがびくりと身体を震えさせる。


「でも……!」


「早クシロ! オ前達ガ逃ゲレバ、私モ飛ンデ逃ゲラレル」


 私はアロを急かしながら、指を曲げた。

 アロは私の指を見ながら、戸惑い気味に頷いた。


 トレントが何か言い返してくるかと思ったが、素直に〖木霊化〗を始めていた。

 急かしたのが効いたのかもしれない。

 それでいい。時間が掛かれば、全滅しかない。

 アロが片腕を肥大化させ、〖木霊化〗したトレントを背負って駆けていく。


 背中に乗るトレントが、心細そうにこっちをずっと振り返っていた。

 女々しい奴だ。


「蜘蛛さんは……優しいな、優しいね。でもね、でも、ダメだよ。二手に分かれても、ダメだよ、ダメなの」


 アルアネと並走していたアレクシオが、別れてアロ達へと向かっていった。


「ね? ね? こうしちゃうの。ごめんね」


 アルアネは私の前まで来ると足を止め、顔を覗き見て来る。

 こちらの反応を待っているようだった。


「嘘までついて、あの子達が躊躇いなく逃げられるようにしたのにね」


「…………」


「不思議そうだね、不思議そう。アルアネはね、アルアネね、嘘だけはすぐにわかるの」


 ……本当に、アルアネは不気味な奴だった。


 私が糸を手繰って飛んで追いつく、ということをアロに示唆したのは、確かにアロが急いで逃げることに専念できるようにするためだった。


 私はかつて、アロの目前で、他の速い魔物に糸を付けて引っ張ってもらうことで、高速で移動してみせたことがある。

 だからアロに糸を付けてからぼやかして伝えれば、それと似た手段で、例えば私が糸を巻いたり縮ませたりしてアロに追いつく術があると、そう解釈してもらえると思ったのだ。


 無論、私にそんな便利な術はない。

 そんなことができれば、とっくに色んなところに糸を付けて保険を作っている。

 細かく説明すれば粗が出るので誤魔化したのだ。


「ごめんね、あなた達は、ここでおしまい」


 アルアネの言葉に、つい笑みが漏れそうになった。

 無論、あの状況なら、負傷した二人にアンデッドの方が嗾けられることは予期していた。


「イヤ……私ダケダ」


 アレクシオのアンデッドは、既にトレントを背負うアロへと距離を詰めていた。

 だが、アレクシオは剣を大きく振るうと妙な硬直を起こし、その後に派手に空振りして地面へと剣を叩きつけ、転倒していた。

 すぐさま起き上がったが、既にアロとは距離が開いている。


「あ……」


 アルアネが驚いたように口を開く。


「アノ程度シカ、動カセナイノカ……マ、効果ガナイヨリマシダ」


 アロのスキル〖アンデッドメイカー〗は、周辺の死体を武器として操ることができる。

 既にアルアネに何らかの干渉を受けているアレクシオのアンデッドにも、至近距離まで接近させれば、動きを瞬間的に止められる程度には通用するようだった。

 正直……どの程度通るのかは賭けだった。


 だが、これなら逃げ切るくらいはどうにかできそうだ。

 それに……アルアネのスキルにも、対象範囲に制限があるかもしれない。

 希望論だが、他に手段のない私には、そう期待するしかない。


「……アルアネが追いかけて、狩らないと」


 アルアネが両腕を振るう。

 これまでせいぜい指の長さ程度だった爪が、一気に五倍以上に伸びていた。

 それはもはや、十本の赤い刃であった。


「残念ダガ、ソレハデキナイ」


 私は両腕を空へ掲げる。

 〖ドッペルコクーン〗を使う。

 ここで出し惜しみはしない。全魔力を一気に放出するつもりでやる。

 私の指先から何十もの赤の糸が伸び、私の分身を形作っていく。

 ――その数、計四体。


「あなたが、アルアネを止める……から?」


 アルアネが自信なさげに首を傾げる。

 そんなもので、本当に私を止める気なの、とでも問うかのように。


 誤解させるように言ったが、そうではない。

 アロには、〖亡者の霧〗のスキルがある。

 この霧の濃い島で、まともに距離の開いたアロを追うのは困難を極める。

 できるものならやってみせるがいい。


 四体の〖ドッペルコクーン〗が、同時にアルアネへと飛び掛かっていく。

 アルアネが地面を蹴り、私を中心に円を描くように駆ける。

 それだけで私の分身達は、簡単にアルアネに追いつけなくなってしまった。


 アルアネが地面を蹴り、分身のいない方角から飛びかかってくる。

 分身を戻す間もなかった。

 腕を振るい、至近距離から横一閃に五本の〖断糸〗を放った。


 アルアネのドレスが裂け、血が走った。

 だが、肉にほとんど入らなかった。バラバラにしてやるつもりだったのだが、失敗もいいところだ。

 恐ろしく頑丈な奴だ。

 もっと重い一撃を叩き込んでやらないと、とてもまともなダメージになりそうにない。

 いや、わかっていた。ただ、無抵抗でやられてやるのは主義ではなかった。それだけだ。



 すぐ目前にアルアネが迫ったとき、唐突に世界の時間が遅くなった様に感じた。


 これならば……と避けようとするが、意識に反して身体がゆっくりとしか動かない。

 ああ、これは、私では既に避けられるものではなさそうだ。


 不思議と、恐怖はなかった。


 やり切った、という気持ちがある。

 後はアロとトレントが無事に逃げ切り……右の主があの腹黒女を無事に倒してくれることを願うばかりだ。

 そう考えると、少しだけおかしかった。

 私はあの木偶を、意外としっかり仲間として見ていたらしい。


 ただ、もう少し私は今の自分を誇ってやってもいいのではないかと思うが、どうしても後を託したアロとトレントへの申し訳なさが強い。

 きっと、背負わせることになるだろう。


 ――――ああ、左の主もこんな気持ちだったのかもしれない。


 首筋に、長い爪が立てられた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る