4ー5
雨の音だ。昼間の激しい雨の音とは違い、それは仄暗い夜にしとしとと降る穏やかな雨だった。グレイは、ベッドから身体を起こし、窓から寝静まった住宅街の様子を覗く。隣の家のしだれ桜が雨粒に打たれ、小さく揺れている。アパートの自転車小屋、水はけの悪い屋根には小さな水たまりが点々とできており、その水面に絶え間なく波紋を広げていた。
「朝方には、止んでくれるといいな」
窓に伝う幾つもの雨粒を見て、グレイは呟いた。透明な雨粒は、住宅街の僅かな光を吸収して、鏡のように彼の眠たげな顔を映している。
小さく欠伸をしてグレイは、再びベッドで横になった。それから瞳を閉じて、次に目覚めたときのことを考える。それは、自分に情熱を取り戻させてくれた彼女のことだった。
「エルの奴、喜ぶかなあ」
画材を詰め込んだ大きなリュックサックを背負って家を出たのが、午前四時。
住宅街は、まだ静寂に包まれており、自転車のスタンドを蹴り上げるとばねの跳ね上がる音が独り響いた。薄暗い早朝の空の元で暫く自転車を漕ぎ続け、グレイは、幽霊屋敷のような建物の前でスタンドを落とす。
「暗いとなおさら恐ろしいな」
下手をすれば半世紀ほど経過しているかもしれない木造家屋は、ひびの入った瓦屋根に苔むした木の壁が特徴的である。グレイは、玄関扉を数回ノックして、それから引き戸を引いた。建付けの悪いその引き戸は、女の金切り声のような不気味な音を鳴らした。
意外なことに扉を開けてすぐ、グレイは家主と対面する。
「あ、おはようございます。何でパジャマなんですか?」
「仕事じゃないし、上からスモッグ着ればいいかなって……エルはいつもの喪服じゃない
んだな」
「デートなので!」
「…………そうなの?」
エルは、はりきってそう言った。彼女は、一切迷いのない動きで自転車の荷台に座る「それじゃあ行きましょうか、朝焼けを見に」。
グレイは、リュックサックとエルの重量に耐えながら、遮蔽物のない街の河川敷まで自転車を漕ぎ始めた。一度駅を通過して、大陸鉄道の線路を横目にアスファルトの道を真っすぐ進む。街中を抜けて堤防に出ると目的地の河川敷までは、あと少しだ。
薄暗かった空は、東の方から僅かに明るくなってきている。
水のせせらぎが聴こえ始める頃、辺りの景色から街並みが消えていた。秋の国は、喧騒に包まれる都会と落ち着いた田舎の二つの顔を持っている。
街は微睡みの中にあるが、この場所はいつどんなときも、水流の凛とした音が世界を満たしていた。
グレイは、乾き切っていない堤防の上で自転車を止めると大きく背伸びをした。湿った空気を身体に取り込み、爽快な風を全身に受ける。
命が洗われている、そんな気がした。
それから湿った緑の芝の河川敷へと降りる。
「あとは、ここで待つだけだよ」
グレイは、そう言いながら東の空へ向けてイーゼルを組み立てる。木と木が擦れる乾いた音は、妙にこの自然の中で浮いているように思えた。
ぼくがこの朝焼けを描こうとしていること自体、やはり間違いなのかもしれない。
黒い感情が心の中で広がっていく気がして、思考を逸らすようにグレイは、急いでイーゼルを組み立てることにした。
組み立て終えるとエルが、折り畳みチェアを二つ用意してくれていた。
「ありがとう、エル……でも、チェアが小さすぎて白いワンピースが地面についてるよ」
「え、マジですか!? がーん」
ずーん、と頭を抱えて沈むエルは、感情表現が豊かだった。思わずグレイが笑うと、彼女は彼を見上げて言った。
「この損失は、グレイさんの作品の出来栄えでチャラにしてあげます……」
「うわー、この服よく見たらすごく良いやつだ。あらら、勿体ないね」
「いやあの、結構気にしているのでやめてくれませんかね……もうっ! 品定めしてない
で、はやくスモッグ着てくださいよ」
珍しくエルは、声を荒げてこちらを睨みつける。やたらと感情の起伏が激しい彼女だった。これくらい情緒不安定じゃないと天才にはなれないのかもしれない、とグレイは安っぽい思考をしながらリュックの方へ手を伸ばす。
「何だか、幼稚園児みたいで似合っていますよ。水色のスモッグ」
「だな、チューリップのワッペンとか張り付けたくなるよ」
「…………あの」
エルは、唇を尖らせてまさに不満げな表情で言った。「もっとこう、恥ずかしいから見ないでーみたいな反応して欲しかったんですけど」
「変に大人ぶっててつまんないです!」
「まあ二十五歳だし」
膨れっ面の彼女に苦笑し、グレイはチェアへ腰を下ろす。
ふと東の空を見ると地平線がうっすらと黄色がかっていた。例えるならばその色は、夏ミカンのような淡い色合いだ。
グレイは震える手で筆を取ると同時に、瞳を閉じた。瞳を閉じるとこの世界の始まりの音を聴くことができるのだった。
――絶えず流れる河川の音色。
――朝の訪れを告げる小鳥の歌。
――世界を駆け抜ける始まりの息吹。
――意識を集中させると一瞬、音が消えたように感じた。
グレイはこのタイミングで、瞳を開いた。
すると、焼くような陽の光が瞳いっぱいに入り込んできて、思わず目を細めてしまった。
「ああ…………」
朝焼けだ。
河川の遥か向こう、海を越えた先で煌々と輝く太陽が姿を現し始める。
どこまでも続く地平線は、燃えるような薄紅色。
低い雲は、陽の光を取り込んでいるかのような淡い黄色。
高い空は、混じりけのない澄み渡る青色。
河は、貫くような陽の光を水面に真っすぐに映している。
雨上がりの緑の大地は、幾つもの虹の雫が煌めき、風に揺れる。
「綺麗……」
エルが熱い吐息のような声で言った。
「あっという間でしたね」
朝焼けが終わるまでの時間を彼女は、一瞬だと感じたのだろうか。
けれど、やはりぼくは。
「ごめん……エル」
――ぼくにとってそれは永遠のような一瞬だった。
グレイは、俯いて震える手で筆を置く。「ぼくなんかに描けるはずなかったんだ」
「ごめんな」
あんなにも美しい景色をぼくなんかが、絵にして良いわけがない。
自分の絵を嫌っているぼくが、この世界を瞳に映して許されるはずがない。
ぼくは偽物なのだ。
「帰ろう」
エルは暫くぼくを見つめて何か言おうとしたけれど、それを遮るようにチェアを折り畳んだ。
灰色のアネモネ 西谷水 @nishitanimizu
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