4-4
翌日、グレイが眼を覚まし、寝ぼけ眼をこすりながら頭の上に置いていた目覚まし時計を見たとき、時計の針は二時二十五分を指していた。
「嘘だろ、アラーム鳴ってなかっただろ」
アラームは二時にセットしていたはずだが、年季物のせいか音が小さいことや鳴らないことが稀にあるのだった。グレイは、目覚まし時計を睨みつけ、悪口雑言をぶつけてやろうと考えたが、どうやらそんな余裕はなさそうだった。
「朝飯抜きかよ……」
低い声で嘆いて、それから三分もかけずに身支度を済ませる。
寝間着から作業着へ着替えて、洗面室の鏡の前に立ち冴えない自分の顔と対面する。
ぼさぼさの枯葉色の髪と深緑の瞳、顔立ちは引き締まっているが、栄養が足りていないだけなのかもしれない。
グレイは、蛇口をひねり流れ出した水道水を両手の内に溜めた。
手の内でゆらゆらと揺れている透明な液体、その冷たさを感じながら一息にそれを顔面へ浴びせた。そうして顔を洗い、歯を磨き、寝癖のついた髪は諦めて、家を出る。
アパートの駐輪場から錆だらけの自転車にまたがり、まだ温められていない早朝の風を頬に受けつつ、秋の国の駅を目指す。
入り組んだ住宅街を抜けて、メインストリートに出ると桜の木が風にひしめいていた。花弁の舞う街中を走り、グレイは職場であるオフィスビルの地下駐輪場に自転車を止めた。
この建物は、最近主流となりつつある鉄筋コンクリートによって建設された新しいビルだ。レンガ造りの華やかな外観とは一転し、シンプルで無駄のない新しい世の中の方向性を予感させる見た目をしていた。
とは言え、グレイはビル内にオフィスを持つ会社員ではない。社員の出社に備えて、早朝からビル内の環境維持を目的とした清掃がグレイの業務だ。時間的に誰もやりたがらないこの仕事だが、高給であり、彼が長年続けている理由だった。
「それにしても眠たいよなー」
仕事が終わる頃には、朝日が昇り世の中が回り出していることだろう。
小さく笑って呟き、グレイは今日も業務につくのだった。
「あ、お兄さん! 今日はおられたのですね、一日おきで描かれてるんですか?」
翌日。
昼下がりの空を覆う灰色の雲は、その向こうに陽の輝きを感じさせるように僅かに光を漏らしていた。数時間後には晴れ間が見られるのだろうか、あるいはこのまま夜を迎えるのか。どちらにせよ、はっきりとしない天候だった。街の賑わいは、一昨日と比べると心なしか落ち着いているように思える。
激務を一日おきに挟んでグレイは、路上で絵を描くようにしている。大きなカバンから折り畳み式のイーゼルとチェアをセットし、何本かのペンを手に取る。気を引き締めるために両手で頬を叩き、愛想の良いいつもの笑顔を張り付けると、視界が開けたとき彼女がいた。
亜麻色の髪のショートカット、ところどころが跳ねている毛先、亜麻色の瞳を弧の形にしてグレイの正面に立っていた。彼女は、相変わらずボロボロの喪服を纏い、黒いヴァイオリンケースを担いでいる。
「…………」
「面倒くさいのが来たみたいな顔しないでくださいよ。私、昨日も探したんですからね」
「探した? 何か用事でもあったのかい?」
「もう忘れちゃったんですか? 絵を描いて欲しいって話ですよ」
「ああ、なるほど」
にこにこと笑っている彼女にグレイは、片手を差し出して言った。
「代金は?」
「…………やっぱだめですかね?」
「ないんだな……お嬢さん。ぼくの絵を好きだって言ってくれるのは確かに嬉しいけれど、これは仕事なんだ。申し訳ないけど、対価がなければできないよ」
言い終えると彼女は「じゃ、じゃあ」と食い気味になってグレイに詰め寄る。金糸雀色の瞳を震わせながら、彼女は乞うように言った。
「ここでお兄さんが絵を描くのを見ていてもいいですか?」
「別に構わないけど……そんなに面白いものじゃないよ」
「ありがとうございます、感謝いたします」
そうして彼女は、グレイの数歩後ろに腰を下ろす。服が傷むことに抵抗はないらしく、石畳へ直に座ったあたり無頓着なのかもしれない。
気を取り直してグレイは、再び笑みを作り客引きのため雑踏の中へと視線を向ける。
足早に目的地へと向かう姿、大勢で談笑しながら歩く姿、立ち止まっては景色に目を向け思わず笑みを浮かべる姿、街を行く人々は、慌ただしくも自分の世界で生きているように見える。
誰一人として客を探すグレイとは眼を合わせようとせず、まるで風景のように流していく。しかし、それは仕方のないことなのだろう。
秋の国は、綺麗な部分では夢を追う街で、汚い部分では自分の欲望を追う街なのだから。
他人に求められようとする芸術家の在り方は、やはり間違っている。
誰にも求められずとも、好きなものを好きでい続ける。それこそが芸術家の正しい在り方なのだろう。
万人に響く絵を描けなくとも、金になる絵を描けなくとも、誰も待っていなくても、才能が認められることなどなくとも、自分の才能を信じられること。
それができていれば、本物だ。
「あ、そこのお兄さん。秋の国へは旅行かい? お土産に一枚どうかな、恋人さんと二人でさ」
それができないからぼくは、こうして似顔絵を描いている。
だからぼくの絵に対する情熱は、偽物だ。
それでも才能のない者は、そうやって誰かに頼って自分の芸術を安売りすることでしか生きていけないのも事実なのだった。
「あれ、お兄さん。今日はもう店仕舞いですか?」
夕暮れ時。
空は、相変わらず灰色の分厚い雲に覆われたままで、晴れ間が差すことはなく夜闇を迎えようとしていた。それに伴ってメインストリートの人通りが少なくなる頃、グレイもまた路上の店を畳むことにしているのだった。
ちょうど折り畳み式のイーゼルを片付けようと席を立ったとき、彼女が言った。
「でしたら、今からでも私の絵を描いていただけないでしょうか?」
絵を描くところが見たいと言っていた彼女は、本当にただ黙って日が暮れるまでグレイの作業を見守っているだけだった。
恐らくぼくの絵が好きだというのは、嘘ではないのだろう。
グレイは、諦めたように溜息をついてイーゼルを畳むのをやめると椅子へと腰を下ろした。そんなグレイの様子を不思議そうに眺めていた彼女に彼は言った。
「やらないの?」
「や、やります!」
彼女は、眼を丸くして慌てた様子でグレイの正面に立った。
立ち絵か。グレイは、椅子を出してあげようか迷ったものの、全体を描くことも悪くはないと思い、黙ったままラフスケッチを進めた。
滑らせた黒鉛は、色紙上に彼女の外見的特徴である表情や立ち姿などを大まかに形どっていく。くせ毛の亜麻色髪は、その艶やかさと毛量を掴むために柔らかく描き、口元に称える笑みはどこかいたずらっぽく。
そんな風にしてグレイが鉛筆を持ち替えようと油性ペンに手を伸ばしたとき、彼女が口を開いた。
「あの、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「ん? どうしたの?」
「お兄さんは、どうして不機嫌そうな顔で絵を描くのでしょうか?」
思わず、伸ばしていた手を止めてしまった。
知らなかったのである。自分がそんな顔をして絵と向き合っていたなんて。
グレイは、その驚きを隠すように慌てて表情を取り繕うと、真っ先にどう答えるべきなのかを考えたが、それよりも先に彼女が言った。
「もしかしてなのですが、本当は絵を描くことがお好きじゃないとか?」
「…………」
そう言われたとき、ぼくは一体全体どんな顔をしていたのだろう。
不快感に顔を歪めていたのかもしれないし、いつものように愛想笑いを張り付けていたのかもしれない。
けれど、そんなことはどちらだっていいだろう。
ぼくは所詮、偽物でしかないのだから。
グレイは、それ以上思考することを止めて、代わりに手を動かしペンを取る。何も考えずに紙面へとペンを運び、走らせた。
「どうだろうね、お嬢さんはヴァイオリンが好き?」
「好きです、世界で一番好きですね」
即答だった「お兄さんは?」。
グレイは、言葉を取り繕うことなく答える。今、自分の心の中にある絵に対する思いを言い訳なく真っすぐに言葉にする。それは、ペンがそのインクを紙へ染み込ませるように自然であり、描かれる線のように繊細で複雑なグレイの本心だった。
「分からないな。ぼくは絵を描くことが好きなのかな。そもそも、こうしていることを楽しいって思っているのかな」
「自分のことなのに分からないって、複雑ですね」
「まあね……でも、本当は自分でも分かっていて、だけど認めたくないのかもしれない。ぼくは既に絵に対する情熱は尽きていて、今はもう残り火みたいなものかもね」
ただ、思い出に縋っているだけなのだろう。
母が愛してくれたぼくの絵。
初めて訪れた秋の国の美しい景色。
幼い日に滾り始めた情熱の炎。
新しく薪がくべられることもなく、あとは消えるのを待っている。
「ぼくはさ、偽物なんだ」
「偽物……?」
「うん。ぼくみたいなのは、物事を好きでいるために理由を求めてしまうんだ」
「どんな理由でしょうか?」
「自分を評価してくれる人がいないと何もできないとか、仲間がいないと心細くて何もできないとか、要するにこの世界でたった一人になってしまったらぼくは、絵を描かなくなってしまうってことだよ」
ふと、イーゼルの向こうの彼女を見ると思いのほか彼女は、真剣にグレイの話を聞いているようだった。
驚いたな、もしかすると彼女にも共感できる部分があったのかもしれない。
グレイはそう思って「もしかして君も分かる?」と言いかけたが、彼女の「私にはちっとも分りませんね」という否定に言葉は、喉元で詰まったきり出てこなかった。
「私は、世界でたった一人になってしまってもヴァイオリンを弾くでしょうし……」
「誰も聴いてくれないのに?」
「もちろん。だって自分の音色を一番聴きたいのは、自分自身でしょう?」
当然という風に彼女は、続ける。
「それともお兄さんは、自分の絵など目も当てられないほどに下手だと思っていらっしゃるのですか? そんなことはないと思いますがね」
彼女は、単に自信過剰なのか馬鹿なのか天才なのか、そのどちらかなのだろう。
自分に自信を持てる人間など世の中に果たして何人いるのだろう。
自らを天才だと名乗れる存在が何人いるのだろう。
天才と呼ばれることと、天才を名乗れることは全くの別物だ。
「何も分かっていない」
その言葉が出かけたが思いとどまりぼくは、乱れた心を隠すために笑みを作って言った。
「ありがとう。ぼくもまあ下手ってわけじゃあないし、自分の絵が嫌いというわけでもないよ」
受け流すように言葉を発して、出来上がった作品を彼女に手渡した。彼女は、舐めまわすように色々な角度から色紙を眺める「私ってやっぱり美少女ですね!」。
「はい、お返ししますね」
彼女は、暫く絵を眺めるとそれをグレイに返した。
「え、要らないの?」
「最初にお話し致しました通り、こちらの絵はお兄さんの宣伝用にでもお使いください」
グレイが渡された絵を眺めていると、彼女はその視界に入り込んで言った。
「もしかしてこの絵も、お気に召しませんでしたか? もしかして本当は、人の絵を描くのが好きじゃないとか?」
「ええ?」
「だって私が描いてあるのに欲しがらないなんて、人を描くのが好きじゃない以外に考えられません」
やはり彼女は、とんでもないほどに自意識過剰だった。
けれど、本当は彼女の言う通りだ。
ぼくは、風景画を描きたくて画家を目指したのだから。
「当たりですね! じゃあ!」
何を察したのか彼女は、その華奢な身体からは信じられないような力で、グレイの手を引いて走り出した。
片付けられていないグレイの出店は、みるみるうちに小さくなっていき、しかし、彼女は気にする用もなく前へ進む。
桜並木のメインストリートを抜けて二人は、ウインドーショッピングで賑わう街中へと進んでいく。そんな騒がしい人混みをかきわけて、陽の遮られた薄暗い路地裏へ。
「ど、どこに行くの?」
「私が一番美しいと思っている景色です!」
振り返った彼女は、楽しそうにころころと笑っている。
まるでこの街が、自分だけのものであるように。
まるでこの世界が、自分だけのものであるように。
路地裏を越えてアスファルトの坂道を下り、彼女はグレイの手を引いたまま大きな森林公園へと入っていく。広葉樹の生い茂る森林公園は、入り口から中心地にある森のコンサートステージまで赤茶色のけもの道が伸びており、しかしながらこの季節は、地面の殆どが桜の花弁に覆われていた。
秋の国は、春になると薄桃色の雪が積もる。
そのような風物詩的表現があるほどに、これは有名な景色なのだった。
「お嬢さん……」
先を行く彼女の足取りに迷いはなく、真っすぐにステージを目指しているように見えた。
それは彼女が、その景色を美しいと強く信じている何よりもの証拠だろう。
そしてその景色は、彼女の宝物に違いない。
果たしてぼくは、彼女の宝物を否定せずにいられるのだろうか。かつての情熱さえ思い出せないぼくが。この街の全てに心動かされていた頃、あの頃の思いさえ忘れてしまったぼくが。現実にすっかり慣れきってしまったぼくが。
彼女の美しいを否定せずにいられるのだろうか。
そして、今のぼくに美しいを理解することはできるのだろうか。
――ぼくは、怖かった。
自信に溢れる彼女から何かを奪ってしまうかもしれないことが恐ろしかった。
七年かけても才能が開花することはなく、既に心折れていることに気付きながら目を背けていた自分如きが、彼女の宝物を傷つけてしまうくらいなら。
そうなるくらいなら、ぼくはもう潔くこの街から去るべきなのかもしれない。
悩み続けてきた諦め時が今なのかもしれないと、グレイはそう、思った。
だから、そっと彼女の手から自分の手を引き抜き立ち止まった。
彼女は勢い余って数歩先へ進み、それから振り返り首を傾げる「どうしたんです?」。
「いや、そのなんというか」
ここが引き際なのだとしたら、言葉を選ぶべきなのだろう。
グレイは、いつもの笑みを張り付けて言う。
「もういいんだ、ぼくは。ここまででいい」
「もう? ここまでって?」
「いや、だから」
だから何だろう。
ぼくは一体、何を守ろうとしているんだ。
まだ情熱を感じられる彼女のことを守ろうとしているのだろうか。
それともぼくは、この先に広がる景色を見て自分が何も感じなかったらどうしようと、ただそのことに怯えているだけなのだろうか。
あれだけ散々自分を偽物だと認めておきながら、最後くらいは本物で終わろうとしているのだろうか。
絵を好きなままで美しいを信じたままで終わりたいと、そう望んでいるのだろうか。
諦めることをどれだけ着飾ろうと、それは惨めな諦めでしかないというのに。
だとしたらぼくは、なんて小さな人間なんだ。
「だから、もういいんだよ。君が見せようとしている景色は、ぼくだって見たことがある。七年もここに住んでいるんだ、知らないはずがないよ」
グレイは言った「だからいい」。
怖い。ただただ、怖い。
才能の枯渇を自覚することが怖い。
世界に対する興味を失っていることに気が付くことが怖い。
画家としての矜持だとかプライドだとかを守ろうとしていることが怖い。
だから、お嬢さんの透き通るような瞳に映っている世界に触れたくない。
「……お兄さん、もしかして怖いんですか?」
「……そんなことないよ」
「でも、汗がすごいですし」
「え?」
グレイは、額に触れて初めて自分が酷く汗を描いていることに気が付いた。すると彼女が近づいてきて、その汗を白いハンカチで拭ってくれたのだった。
「お兄さん、一つお聞きしますがこの国の春はお好きでしょうか?」
「……春は」
――嫌いだよ。
「でも、お兄さんにもこの春を美しいと思えた日があったのでしょう?」
彼女の金糸雀色の瞳を覗くと、そこにはグレイの姿が映っていた。
七年前、まだグレイが青年だった頃の姿だ。
白シャツに黒のサスペンダーワークパンツ、纏う衣服がやや大きいのは母親が彼の成長を祈って与えてくれたからだ。枯葉色の髪は短髪で整えられ、爛々と深緑の瞳を輝かせている。当時のグレイ・ロータスはまだ十八歳だった。
あの頃のぼくは、この街のことを気に入っていた。全ての景色が絵画世界のように深く彩られていて、聞こえる音全てが鳥の歌声のように心の琴線を震わせた。
グレイの深緑の瞳が瞬くと、彼女の瞳の奥には、大人びた二十五歳の彼が映っていた。
枯葉色の髪は伸びきってぼさぼさ、纏う白シャツとサスペンダーワークパンツは、アイロンをかけていないせいで皺だらけ。その深緑の瞳は、何かに怯えて震えていた。
みっともない姿だった。
母が見たらなんというのだろう。
「世界は、あなたが思っているよりも変わり続けているんですよ」
彼女は、微笑んで続けた。
「昨日嫌いだった景色は、明日になれば好きになっているかもしれない」
「嫌いなままかもしれない」
「確かめてみなければ分かりません」
「馬鹿みたいなことを言うな」
「え、お兄さんって馬鹿じゃないんですか?」
「…………」
「それに、確かめるなら今ですよ。人間には明日が来るか分かりませんし、現実的なことを言えば明日もこの街にいるとは限らないでしょう。私もお兄さんも」
「…………」
「もっと言えば、人間だけでなく存在全てに明日があるとは限りません。今は戦時下ですから、突然爆弾が落ちて建物も植物もなくなるかもしれない。機械人形が、あなた方を撃ち殺すなんてこともあるかもしれない」
言って彼女は、グレイに手を差し伸べる「お兄さん」。
「時間は無限じゃない。この世に永遠なんてない、諦めたら諦めた瞬間に未来は失われる」
「そんなの屁理屈じゃないか」
「屁理屈だって理屈だと言ったのは、誰でしたっけ?」
「…………」
彼女は、楽しそうに笑う「見せますから、一番美しい景色ってやつを」
「だから見せてください、あなたの描きたくて描いた絵を」
気が付いたとき、グレイは差し出されたその手を握っていた。
――森林公園の樹齢三百年を超える桜の大木、その元に設けられたコンサートステージ。
空を覆っていた灰色の雲、その隙間から今まで遮られていた光が溢れ出し、ステージ上に木漏れ日の海を映し出している。そよ風に揺れる木々の音が、この世界を満たし、穏やかな時間を作り出す。亜麻色髪の彼女は、ヴァイオリンケースから楽器を取り出し、ゆったりとした足取りでステージに上がった。その様子をグレイは、最前列から眺めている。
彼女が信じている「この世界で最も美しい景色」。
その瞬間が訪れるまで、グレイは静かに瞳を閉じた。
すると一呼吸おいて真っ暗闇の中、ヴァイオリンの低い音が聴こえた。
低い音が足元を通り抜け、それから高い音がグレイの頬に触れる。穏やかで温かく、けれど時に冷たい現実の重さを含んだ音色。
――それは、細胞全てに溶け込むような感じたことのない音だった。
グレイは、瞳を開き映った景色に一瞬、呼吸をすることさえ忘れ見惚れてしまった。
「音が見える」
彼女の奏でる音色が、そよ風に乗ってこの森林から世界へと流れ出している。
気がしているのではなく、見えた。
黄金の音が、確かに辺り満たし、流れ桜の枝を揺らし、花弁を空へと羽ばたかせ、ステージに現れた木漏れ日の海が、彼女の音を取り込み本物の波のようにさざめいている。
その音に惹かれた野鳥たちが彼女の足元へと降り立ち、温かな音の風に誘われたのか野生動物たちが視界の隅で清聴している。
グレイは思わず聴き入って、再び瞳を閉じる。
この空間は心地が良い。気を抜けば、温かな微睡の中へと沈んで行ってしまいそうになるほどだ。
こんな音色は、聴いたことがない。
そもそも、本当にヴァイオリンが鳴らしている音なのだろうか。
けれど、そんなことはどうでもいいと思えた。
今はただ、この希望に満ちた世界を感じたい。
この街の春を心から味わいたいんだ。
――この景色を母さんに見せたかったなあ。
熱い吐息のように呟いて、涙が頬を伝った。
グレイ・ロータスは、いつかこの景色を絵にしようと心に誓う。だから今だけは、視界をぼやけさせる涙を拭い、この世界の美しさを瞳に焼きつけるのだった。
「お兄さん、お兄さん、こんなところで寝ちゃったら風邪ひきますよ」
「うん……?」
目が覚めると、辺りは暗闇に包まれており、グレイは自分が眠っていたことを知った。
彼女は既に演奏を終え、グレイが目覚めるのを隣に座って待ってくれていたらしい。そう話してくれた彼女は、満足げな表情で言った。
「どうでした? 私の思う世界で一番美しい景色」
「綺麗だったよ……正直あんなの生まれて初めてだったかもしれない」
グレイは、思い出して熱を帯びた口調で続ける。
「世界が音に包まれていたというか、そうじゃなくて音が世界を作っていたって言えばいいのかな。とにかくお嬢さん、君は天才だ」
「そうでしょう、そうでしょう。私は自他ともに認める天才ですからねえ」
「未だに夢を見ていたんじゃないかって気分だ。信じられないよ」
「ありがとうございます。まあ、そんなことより、これでお兄さんも少しは自信取り戻せました?」
「自信?」
グレイが首を傾げると、彼女は答える「美しいって思えました?」。
「もしそう思えたなら、お兄さんの瞳は正常です。美しい景色を素直に美しいと思えます」
あれを見せられたら誰だって美しいと感じることだろう。
グレイは言いかけて、しかし、それは正しいのかどうか今一度吟味する。
今日までの自分は、その当たり前に美しいものを嫌っていたのだ。
「ぼくは、正常か……」
彼女の言っていることは正しいのかもしれない。
「お嬢さん、君は一体?」
彼女は、立ち上がりグレイの正面に立つと微笑みを称えたまま、恭しく一礼し言った。
「申し遅れましたね。私は弔い人形のエルと申します」
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