4-3

「もしもーし聞いてます、お兄さん?」

「あ、ああ、それで何だっけお嬢……さん?」

 答えつつグレイは、彼女の顔から視線を逸らし、全体を観察する。彼女の顔立ちから名家のお嬢様なのかもしれないと想像していたが、意外にも服装は、くたびれた喪服を纏っていた。しわくちゃの黒い礼服と長い黒スカート、黒ヒールが陽光を反射して鈍く光っている。それに。

それに――肩に担いでいるヴァイオリンが目に留まった。

 この街では、大抵の芸術家は金を持っていないのである。

 頭から足先まで黒一色な彼女にグレイは言う。

「というかお嬢さん、失礼だけどお金持ってるの?」

「そ、それはもちろん……あ、ありますけれど?」

「じゃあ先にもらっていいかな?」

 彼女は片目を閉じ、人差し指を立てて言った。

「私のような美少女を描くわけです。これは寧ろ、お金を払うべきはお兄さんなのではありませんか?」

 自信ありげに言うと、続けて彼女は大袈裟に両手を広げる。

「ところがところが、今回はお兄さんの絵に免じて無料で、しかも描き上がった作品は、宣伝用にしていただいても構いません! この条件でどうでしょう」

「はあ……でもそれだと、お嬢さんには何のメリットもないように思えるけど」

「そんなことありませんよ。私、お兄さんの絵が好きなんですもの。見ているだけで良いんですよ」

 透き通った金糸雀色の瞳でこちらを見つめる彼女は、グレイが溜息をついて目を逸らすと「あからさまに面倒くさいって空気出さないでくださいよー」と強引に視界へ入り込んできた。

「あのなあお嬢さん。これは慈善事業とか趣味とは違うんだよ……商売なんだよ。お金がもらえないなら描かない、ぼくは割り切ってるんだ」

「で、でもー美しいものを描きたいってのは、芸術家の本望なんじゃないんですか?」

 ふうむ。

 さらっと自分自身が美しいと宣言された気がしたけれど、グレイは何か返事を考えたがまともに取り扱うのも馬鹿らしかったので、人ごみの中へ視線を戻した。適当に裕福そうな人を見つけて声を掛けに椅子を立った。

「無視しないでくださいよー」

 数時間ほど声掛けをしたものの誰にも相手にされず、グレイは張り付けていた笑みを崩し、どっと疲れた様子でイーゼルの前に座り込んだ。

 しかしまあ、一日に一組捕まえられれば良い方だろう。

 グレイは自分に言い聞かせて、茜色に変わった空を見上げた。太陽は街の建物に隠れてしまっていたが、雲は夕陽の光を受けて、柔らかな薄い桃色を帯びていた。

 また一日が過ぎて行ってしまった。

 思い耽って自然と目を瞑る。

 カラスの鳴き声が聞こえるこの時間になると、ようやくこの駅周辺も閑散として静まり返る。時々止まる列車の蒸気機関の音と同業者の商売道具を片付ける音が、空間の全てなのだった。静かだった。

 何もない時間、グレイはこの時間が嫌いじゃない。


「あらら。商売あがったりだよ全く、あのとき忽然と舞い降りた美少女の絵を描いとけば良かった……みたいな顔されていますね、画家のお兄さん」


 声がして瞳を開くと、金糸雀色の瞳をしたヴァイオリニストの彼女が、こちらを見下ろすように立っていた。陽の光を背景にした彼女の亜麻色の髪は、杏子色に照り輝いて見える。グレイは、彼女が誰だったかを思い出して、野暮ったい声で答える。

「あらら。今日はロクに稼げなかったし、無駄に画材消費しなくてよかったよ、お嬢さん」

 にやりと笑って彼女を見ると、驚いたような表情になってから頬をふくらませて、こちらを睨みつけてきた。綺麗な顔が、勿体ないくらいに歪んでいて、美人も怒るとこんなに不細工になるのかとグレイは、新しい発見に内心頷いていた。

「んで、何の用だよ? 今日はもう描かないぞ」

「やけに強情ですね……まあ、いいですけど。次の機会にまたお願いしますので」

「あのさ、お嬢さん」

 やれやれ、と半ば諦めたようにグレイは続ける。

「どうしてそこまでして描いて欲しいわけ? この秋の国には、画家なんて比喩でも何でもなく星の数ほどいるだろ」

「星の数はいないでしょう。けれど、それはいいとして、私だって誰でもいいというわけではありません」

 言って彼女は、路上に座り込んでいたグレイと目線を合わせるように正面へ屈んできた。亜麻色髪の毛先が軽くグレイの頬に触れ、花の蕾のような甘い香りを匂わせる。

 突然のことに動揺する間もなく、彼女はグレイの一瞬の隙をついて距離をつめてきたのだった。彼女は、顔を眼と鼻の先まで近づけくると、その透き通った瞳でグレイを貫くように見つめた。

 この街の芸術家にしては、いや、芸術家と言うのを抜きにしたって彼女は、綺麗な瞳をしていた。それは思わず魅入ってしまうほどに。

 彼女は、小さく息を吸って言った。


「お兄さんの絵が好きだからです」


 どうしてグレイの絵にこだわるのか、その理由は、直球だった。

「今日、一日かけて色々な方の絵を拝見させていただきましたが、お兄さんの絵が一番心にグッときましたので」

 杏子色に照る髪が風になびき、またしても甘い匂いがグレイの心臓に早鐘を打たせる。

 二十五年生きているけれど、女性とは、ましてや母親とだってこれだけ近くで会話をしたことなんてない。

 状況を理解したグレイは、返事をするより先にこの距離感に耐えきれず、眼を逸らし言った。

「分かったから離れてくれ、お嬢さん」

「あら、意外とウブなんですね」

 彼女は、微笑んで立ち上がる「じゃあ、オーケイということでよろしくて?」。それを見てグレイもすかさず立ち上がり、彼女に背を向けて道具を鞄の中へと片付ける。片付けながら答えた。

「分かったとは言ったが、まだ描くとは言ってない」

「そんなの屁理屈じゃあありませんか!?」

「屁理屈も理屈だろ」

 というか理屈ですらないと思うが、グレイは黙々と片付け終えると、アパートまで歩き始めた。あの場に残された彼女がどんな表情をしているのかは、分からなかったが振り返る気にはならなかった。

「お兄さん、次また来ますから!」

 後ろから聞こえたその声には、何も答えずにグレイは帰った。

 赤煉瓦の古いアパートは、二階建ての建物全体をツタのような植物が覆っていて見るからにボロ屋敷だった。

 階段を上って、建物内の廊下に響く自分の足音を聞きながら部屋の扉を開ける。このワンルームのアパートでグレイは、七年暮らしていた。

 扉を開けると、カーテンの閉じられた薄暗い空間がグレイを待っている。

部屋にある家具と言えば、ベッドと中身が溢れたゴミ箱が一つだ。床一面に散らばった紙は、過去の作品、金にならない絵だった。絵に混じって引き裂いたスケッチブックなどもあり部屋の様子は、グレイのやつれた心そのものを写していた。

 カーテンは閉じたまま、グレイはベッドで横になると何となく彼女の言葉を思い出した。

――お兄さんの絵が好きです、か。

 正直言って、素直に嬉しいとは思わなかった。上手だとか、才能があるとか、好きだとか、また描いて欲しいとか、ほとんどの人が口にするだけして自分に何かをしてくれるわけじゃない。

 勿論、その言葉が嘘じゃないことくらい分かっている。

 ぼくは、画家を志しているだけあって、当然彼らより絵は上手い。

 だけれど、それだけだ。

 彼らより上手い人は大勢いるのだから、ぼくが大勢の内の一人というだけで、当たり前だ。本当に信頼できる人が、自分に言ってくれたのならまだしも、彼らは誰に対しても同じ感想を抱いている。鵜呑みには出来なかった。

 だからこそ言葉は、対価を受け取って初めて信じることができるというものだろう。

「金にならない絵に価値はないんだよ」

 吐き捨ててグレイは、部屋の壁に掛けていた唯一の絵を見つめた。

 クレヨンで描かれた幼稚なアネモネの花の絵だ。

 幼い日、グレイが描いたその絵は、今は亡き母のお気に入りだった。

 要らない思い出が、邪魔な思い出が、価値のない思い出が、どうしてでも手放せずに七年も過ぎてしまったことをぼくは後悔しているのだろうか。

 夢を叶えると母に誓い、田舎を出て行ったあの日のことを悔やんでいるのだろうか。

 描きたい風景を描かず、偽物の心で描き続ける作品を母が見たらなんと言うのだろう。

 胸を張って、ぼくが描いたと言えるのか。

――今のぼくは、偽物の心で、言ってしまえばかつて燃えていた本物の心の余熱で生きている。

 絵が大好きだった頃の惰性で描き続けている。母が愛してくれた思い出で描き続けている。本当はもう、何もかも諦めてしまっているのではないか。

 夢に対する思いは、偽物なんじゃないか。

 真っ暗闇の部屋の天井。

 溜息を吐いて寝返りを打つとベッドの軋む音が鳴った。

 普段は気に入っている静謐なこの時間が、どうしてだか今だけは嫌に感じた。

 それからグレイは、自責の念から意識を逸らすように瞳を閉じるのだった。

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